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朝山実が、読んだ本のことなど

付き人だったひとが語る、ドキュメンタリー映画「健さん」

 

respect-film.co.jp

『健さん』(日比遊一監督)というドキュメンタリーがこの夏ロードショー公開される。
 俳優・高倉健について、マイケル・ダグラスマーティン・スコセッシ山田洋次降旗康男といった映画監督や俳優をはじめ、20人以上の人たちが語る声を集めた評伝集のような映画だ。
 なかでも面白かったのは、40年あまり付き人だったという男性。むかしは大部屋俳優だったのかなぁ。すでに映画の世界から遠ざかり、京都のガソリンスタンドを経営している。カメラは男性が仕事をするスタンドの事務所に入っていく。

 駅のホームで、健さんと二人で立っていると、「あんたら兄弟やろ。わかるわ」キヨスクのおばちゃんに声をかけられたという。ガソリンスタンドの社長だという男性の、顔つきや物腰からして似ているようには思えないのだが、これまでもう何回ともなくひとに語ってきたのだろう。健さんも「うちの兄です」とこたえていたという。

 あの高倉健と、ウラカタとして40年連れ添った相棒とはどんな男なのか。
 カメラに向かってしゃべる男は、押し出しのつよい、関西の町工場の社長タイプ。あの高倉健から繊細な男を勝手に想像していたものだから、どうしてまた彼を始終行動をともにする付き人にしていたのか。途中からは、その一点の謎で95分の映画を観続けたといっても過言ではない。

 途中、実妹が登場し、きょうだいの視点で「高倉健」でない健さんについて語る場面もよかった。母親と並び、頭をなでなられている幼い頃のビデオ映像も映される。将来、自分が高倉健になろうとは考えてもいなかっただろう。ただただお母さんの傍にいられるのが嬉しくてたまらない少年の姿である。

 付き人の男性の語りは、何回かに分けられている。ここからはネタバレになるかもしれないが、後半、男性はこんな思い出話をする。
 母親の命日に欠かさず健さんは墓参りをしていた。付き人の男性に電話してきて「不思議なことがあるもんだなぁ」と、墓がきれいに掃除にされていた。誰なんだろうかとその様子を語る。「奇特なひともいるもんですなぁ。ほんまですなぁ」と男性。おまえじゃないのか。水を向けられても、わかってるでしょう、自分はそんなことをするような気のまわる人間やないですよと笑い返していた。

 そういう判で押したようなやりとりを何年が続き、健さんから名前を呼ばれ「いつもありがとうな」といわれたという。試写を観てから日が経っているから言葉のやりとりなどは精確ではない。
 ただ、名だたる映画監督や俳優さんたちの賞賛の言葉はおぼろげだが、語っている男性の楽しそうな顔つきはいまも鮮明だ。それに、男性の息子の結婚式で挨拶する高倉健のビデオ映像も印象に残っている。

 もう一点、健さんらしいといえば、元妻だった江利チエミがなくなったときに、葬儀の会場の近くまで行きながら、なかには入らず、人目につかないようにして黙って手をあわせて還ったという。そのときの心中を忖度して語っているのもよかった。「付き人」だった男性の名前は、西村泰治氏という。巨匠監督と同列に扱っているのがこの映画の素晴らしさだ。

独身女が年収250万円で家を買うのは…池辺葵の『プリンセスメゾン』から

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 写真家のHさんから、家賃がいくらというのは外してくださいと言われ、まあ、そうかと思ってゲラから削った。
 けっこういい暮らしをしているじゃないか。そう見られかねない。実際は、大黒柱である妻が体調を崩し、毎月の家賃の算段に頭を悩ましている。いつホームレスになるかしれない、と苦笑された。
 実際、お宅を訪問して、リッパな住まいだなぁと思い、いつものクセで家賃を聞いたら、間を置かずに答えてもらったのだった。4LDKだったかな。間取りを考えたら、東京近郊で駅からの距離からして、お買い得。しかも成人した子供ふたりと4人暮らし。家具なんかも我が家のようにイイトシをして学生マンションみたいなとちがい、ちゃんとしたものだし、なにより初めて訪れたにしてはなんとも居心地がいい。
 海外で写真展が開かれるなど、写真の世界では高名だけど、妻と結婚していなかったら、写真家であり続けられたかどうか。写真を撮ることができるのは、妻のおかげ。いい暮らしをしていると思われると困るんだよ、と苦るあたりはHさんらしいなぁとますます好きになった。

 さて。池辺葵の『プリンセスメゾン』は、モデルルームを見学してまわる、独身女性の物語。高卒で働き出して8年になる、現在の年収は250万円ちょっと。居酒屋チェーンで働いている。求める物件は1LDKだが、ファミリータイプの物件もくまなく見てまわる。ボーイフレンドもなく結婚の予定もない。もし、そうなったらそうなったときに考えればよいというのが、その彼女「沼ちゃん」だ。

 年収250万円だから、とあきらめない。削るべきところは削る。
 たとえば、誘われても飲み会は断る。安易な妥協とかもしない。周囲からは「鉄の心の持ち主」とささやかれている。
 ファミリー向けのモデルルームの見学会でも、家族やカップルばかりのなに、ひとりリュックを背負った、お下げ髪の沼ちゃんは幼く、浮き上がって見える。

 その年収じゃムリでしょうと思えていたものが、読み進むうちに応援しているのは読者のワタシだけではない。常連になって顔を覚えられているマンションの販売会社の社員さん(イケメン)や、展示場の受付嬢たちからも、「沼ちゃん(本名は沼越)」と呼び、いろいろと後押しする。

 いいのは、彼女の居酒屋での働きぶりである。
 よく働くし、こまごまとしたところに気がつく。一見、幼く見える「沼ちゃん」だけど、意思はつよく、考えにもブレがない。
 けっこう好きなシーンは、彼女が高層マンションの見学会から帰宅する。ワンルームのアパートの自室で、貯金通帳を眺める場面だ。

 

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「残高を見るのが目下のシアワセ」と、デビューして間もないころのインタビューに答えていたのは、イッセー尾形さんだった。もう40年くらい昔かな。
 週刊誌の記事を見たとき、いいひとだなあと思った。
 しかし、その記事に事務所のマネージャーや演出家さんたちは激怒したという。
「私たちは何もお金が欲しくて芝居をやっているんじゃない。それなのに…」

 記者におもねるようにして、そういう一言を口にしたイッセーは考えが足りないと叱ったのだと、事務所に出入りするようになって聞かされた。演劇を思想や運動としてとらえていた人たちだったから、その立腹もわからないではなかったが、預金通帳を眺めているイッセーさんの姿がワタシにはとても好ましいひとに思えた。そうではない、思想にもとづく受け答えをしれっとやれているイッセーさんだったら、ずっと好きになったりはしなかっただろう。

 

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 話をもどすと、『プリンスメゾン』を読んでいて意外だったのは、豪華マンションを案内する受付嬢たちがみなさん派遣で、キャリアのあるセンパイなんかも膝を抱えるバスタブの質素な部屋で暮らしている。
 沼ちゃんを最初は下に見ていた彼女たちだが、このご時世にお金を貯めて家を買うというのは、他人事ではない。派遣の受付嬢の若い女性が、部屋を借りようとして、連帯保証人のほかに保証協会に入らないといけないと不動産屋に言われ、うちの親が年金だから、わたしが派遣だから下に見ているの?と激する場面がある。「いまはそれがふつうです」と返され、萎れてしまうのだが、そういえばワタシもつい先日そういう体験をした。なんだよ、そのフツーって

 家に関する豊富な知識やバイタリティのある沼ちゃんを、受付嬢たちは同士というか友達のような関係になっていく。のような、というのは、沼ちゃんのアパートに遊びに行くなどして親しくはなりつつも「お客様」という一線を守ろうとするからだ。独特なその距離感は、同じ池辺葵の『繕い裁つ人』に似ている。こういう距離感、ワタシはけっこう好きだ。

 好きな場面といえば、沼ちゃんの暮らすアパート。
 玄関を入ってすぐにシンクがある。
 一口コンロやまな板一つしかおけない調理スペースを、彼女は炊飯器を床に置いたりして工夫している。
 ワタシも、引っ越しの際、いちばんにチェックするのがキッチンで、つい彼女の自炊の手順をコマで追いかけながら、ノートの「キッチン希望仕様」に、
「★2口コンロ(以上)、★お湯の出る蛇口……」
 と書き出しているのに見入ってしまった。
 間取りを眺めるのは、そこに住むかどうか、住めるか否かをさておき、見ているだけで楽しいものだ。部屋ひとつで、ちがう人生が開けるかもしれない、なんてね。
 そうそう。沼ちゃんが、どうして見かけによらず、しっかりものなのか(多くを望まず、自立志向なのか)を明かすシーンがちらっと描かれている。
 そのあっさり感がかえって(ふいに空間を飛び越えた視覚的なアングルの切り替えが素晴らしい)情緒的でいい。それもこの漫画のよさだ。女学生服の沼ちゃんが雑巾で畳を拭いている背中(2巻48㌻)は何度読み返してもぐっとくる。多くを説明しないのもいい。

 

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プリンセスメゾン 1 (ビッグコミックス)

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プリンセスメゾン(2) (ビッグコミックス)

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インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/