わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

今年読んだ「弔い」の本、8冊

2016、今年読んだ本の中で、「弔い」をテーマにしていて印象に残った、8冊。

f:id:waniwanio:20161223141344j:plain

 

『煙が目にしみる 火葬場が教えてくれたこと』
ケイトリン・ドーティ 池田真紀子・訳
(国書刊行会)

葬儀会社に就職し「火葬炉」の担当になった若い女性の職場体験記。
米国は土葬だとばっかり思っていたが、近年は火葬も増えつつあるらしい。とはいえ。まだまだ少数派で、だからこそドラマっぽいエピソードが綴られる。火葬増加の背景には経済事情が関係しているらしく、日本の「直葬」と似通ったものを感じる。

 

『このあとどうしちゃおう』
ヨシタケシンスケ
(ブロンズ新社)

おじいちゃんが遺していったノートから、小学生の孫が想像をめぐらす絵本。
おじいちゃんは、自分が死んだあとのことをどう考えていたのだろうか? ジゴクってあるんだろうか? いつもながらヨシタケさんの絵は味があっていい。

 

『葬送の仕事師たち』
井上理津子
(新潮社) 

取材なんていうとかえって入れない火葬場の職員さんにインタビューし、遺体が焼かれていく炉の中を見ているのがすごい。

 

『死者を弔うということ 世界各地に葬送のかたちを訪ねる』
サラ・マレ 椰野みさと・訳
(草思社)

父親の死を契機に、世界各地の葬送を取材して歩くノンフィクション。
日本にいると、お坊さんを呼んでお経を唱えてもらって、というのを当たり前に思っているが、こんなにいろんな葬送があるものだとびっくり。とくにガーナでオーダーメイドのポップな棺桶
(ケータイ電話だとかヒコーキの形だとか、デパートの屋上の遊戯具みたい)を作っているというのを知って、なんじゃろう?となった。

メメントモリ・ジャーニー』
メレ山メレ子
(亜紀書房)

サラ・マレさんの本を読んで気になっていた、デコレーション棺桶。なんと発注してみた日本人の女性のレポートで、ぐっと「マイ棺桶」が身近になった。「葬送」のイメージが揺りうごかされる。

 

『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教
鵜飼秀徳
(日経BP)

「遺体ホテル」「散骨島」といったコトバにドキッとするが、葬送の現場を取材したルポ。
大都市の火葬場はたいへん混みあっていて「数日待ち」というのは常識だとか。順番を待つあいだ「ご遺体」を安置しておくための施設として登場したのが「遺体ホテル」で、発案した元ホテルマンのオーナーのインタビューで先入観がかわる。


母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。
宮川さとし
(新潮社)

葬儀の日から書き起こされる、生きているときはお節介がわずらしいと思っていた母親がガンであっという間になくなるまでと、葬儀のあとの日々を綴った実話マンガ。
いろいろあって再読した共感の書。


『小説ワンダフルライフ
是枝裕和
(ハヤカワ文庫)

1998年の是枝監督の同名映画を自身で小説にした本。
死んだ人たちが一週間、廃校を利用した施設に滞在。「あなたの人生の中から大切な思い出をひとつだけ選んで下さい」と面接官にいわれる。映画で所長を演じていたのは谷啓さんだった。なかなか選べずに誰かもが迷う。いつも読み返してジブンなら何を選ぶんだろうか、選べるんだろうか、と物思いにふける。職員たちはジツは…というオチでラストがいい。『映画を撮りながら考えたこと』という是枝さんの回想録を読んで、今年もまた読んだ。

 

(選・朝山実)

 

 

津村記久子『浮遊霊ブラジル』の中に出てくる、「オモ族」の写真集を見る男の子の話が面白い。

一日のご褒美に「オモ族」の写真集を見る男の子の話が面白い。

 

f:id:waniwanio:20161222152834j:plain

津村記久子『浮遊霊ブラジル』(文藝春秋)

津村記久子の書く小説といえば職場小説の印象があるのが、最新刊の『浮遊霊ブラジル』は、死んじゃったお爺さんが、生前に行きたかった海外旅行を幽霊になって果たそうとする表題作をはじめ、これまでの作品とちがってかなり軽妙で、しょゅっちゅうダベっていた女友達ふたりが地獄に落ちてからも交友関係を続けていく「地獄」という短編なんぞは、脇役の鬼たちが役所勤めの公務員キャラクターで、たとえばある鬼は妻の浮気に悩んだりして主人公が悩み相談に応じるなど、桂米朝の大ネタ「地獄八景亡者戯」を思い浮かんだりして面白い。


 ぜんぶで八編あるなかで、とくにワタシが好きなのは「個性」という短編だ。
 就職活動を控えたある大学3年生たちの話で、「秋吉君」という男子は、まわりのひとには見えているのに彼ひとりだけが「見えていない」という、特殊な視野障害の病気をもった若者という設定で、そういう病気は実際にはないのだろうが、ありそうに思わせるのが津村さんの特色でもある。

 主人公の「私」は小説の中では、観察者的な立場の女子大生で、秋吉君のことを好きになった女子の「板東さん」がある頃を境にして、「ドクロ侍(骸骨が鎧を着て、刀を両手に構えている)」がプリントされたパーカーなんかを着て学校にやってくるようになり、もともと無口でジミなキャラなのにどうして? と思うところから始まる。

 秋吉君は、わが道をゆくというか、いつもネルソン・マンデラとかドストエフスキーとかカミツキガメとかヤドクガエルカルロス・バルデラマなどなど、ハデなTシャツを好んで着てくる男子で、主人公は「ドクロ侍」は板東さんが着るよりも秋吉君が着たほうがふさわしいだろうに、とか思いながら見ている。ちなみに「カルロス・バルデラマ」が気になったので、ネット検索をしてみたら、すごくインパクトのあるサッカー選手だった。

 板東さんは、その後もアロハを着たりと、目立ち方がどんどんエスカレートしてゆく。もともと整った顔立ちの美形で、「私」は彼女のことをドクロ侍なんか着るタイプの人じゃないのにと思い、何が彼女の身に起こったのかと心配している。ある日のこと、とうとう板東さんは、
〈大阪の商店街のおばちゃんが身に着けているような、トラが正面に向かって口を開けているTシャツを着てきた〉。


 いっぽうの秋吉君だが、「トラー」といって板東さんのTシャツを指差してはしゃいでいる。その反応に板東さんは、ぶすっ、としてその場からいなくなる。


「トラが行っちゃったよ」と残念がる秋吉君。
「トラじゃないよ、板東さんだよ」と主人公が突っ込むと、
「え、板東さんなのか」という、やりとりを交わす。

 秋吉君には、トラのシャツは見えても板東さんの姿は見えておらず、坂東さんは彼の目にとまりたくてヘンな格好をエスカレートしていくというスジで、奇妙な話なんだけど、話が進んでいくにつれ、タイトルの「個性」とはどういうものかということのハナシになっていく。つまりは、アイデンティティのモンダイというか、ボク(わたし)って何?の話である。さらに踏み込んでいうなら、いびつなモノのなかにこそ「個性」は潜んでいるということを指し示している。

「いるっていうことはなかなかわからないのに、いないっていうことはすぐにわかるの?」

 登校してこなくなった板東さんについて、秋吉君から聞かれた主人公が問い返すと、秋吉君が申し訳なさそうにうなずく場面が印象的だ。

 このハナシは、まだ恋人でもないし、友達にすらなれていない二人が、相手を認識していこうとする途上の出来事を綴っていて、実際二人が会話してみたらどうなるのかは未知数なままに、ラスト近くで、秋吉君に認識してもらいたい板東さんはあることをする。おそらく彼女にしてみたら、キヨミズのブタイから飛び降りるような心境だったにちがいない。恋愛もののようで必ずしもそうなってはいないこのラストがすごくいい!!

 津村さんにこの本に関してインタビューしたときに、
「なんで同じ顔に見える美男美女を頑張って、見分けてあげないといけないのか」と話されていたのが面白かった。着想の発端は、秋吉君ほどではないにしても、津村さん自身が整った顔のひとの顔が識別できないことからきているらしい。

 作中に、秋吉君が気に入っている写真集というのがあって、それはアフリカの「オモ族」の人たちを撮影したもので、顔にカラフルなペイントをしたものらしく、津村さんも好きなのだという。気になったので書店で探してみた。

 秋吉君の持っているものと同じかどうかわからないが、その一冊の写真集がいま欲しくなっている。「顔とかに色を塗りたくっている、あんなんでしょう」くらいに、見るまでは津村さんも秋吉君も妙なものが好きななんだぁと思っていたが、カラフルに顔に化粧していて、とってもカワイイのだ。いやなことがあっても眺めていると、もやもやが晴れるかなぁーとか思ったり。あと一月しても、それでもほしいと思うようなら買ってみようと思っている。

 この話が好きなのは、ワタシもひとの顔がなかなか覚えられないことが関係しているかもしれない。声はわりと記憶するんだけど、仕事相手で何度会っても顔を覚えられないなんてことはしょっちゅうで、だからなるべく会社を訪ねていくようにしている。

f:id:waniwanio:20161222152928j:plain

週刊朝日」2016.12/16号

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/