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朝山実が、読んだ本のことなど

じゃんけんのシーンが秀逸‼ 映画「わたしたち」ユン・ガウン監督

『わたしたち The World of Us』
ユン・ガウン監督・脚本

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 最初、小学生(5年生くらい?)の女の子のアップが何分間かつづく。
「じゃんけんぽん」
 掛け声がして、名前が呼ばれる。そしてまた、じゃんけんぽん。名前が呼ばれる。そしてまた…

 その間、女の子は目線を右に左に動かしている。たったそれだけのことで、ワタシの脳内で、彼女と同じ年齢のころを思い出した。

 ワタシが思い浮かべたのは「どの子がほしい」「○○ちゃんがほしい」と足を蹴り上げながら仲間を奪いあう遊びだ。大人になってみれば、人気投票でもあり、参加しながら、一度もほしいといわれないコドモはキツイよなあれは。

「じゃけんぽん」の主人公の少女ソンがじっと黙って、なりゆきを眺めていたのはドッジボールのメンバー選びのためだった。勝った順に「ほしい子」を指名していく。とうとう自分の名前は呼ばれず残り二人となったときの、ソンの微妙な表情がなんともいえない。演技力としたらこんなにリアルなものはない。落胆し、それでも残りわずかな希望を抱こうとしている。そして結果を受け入れる。

 このシーンの撮り方がすごいのは、主人公ソンの顔を画面いっぱいに映すだけで、まわりの子供たちの姿は、「じゃんけんぽん」の手くらいしか見えていない。逆に鮮明に聴こえるには、周囲の声。それでも、というか、だからこそ彼女の目の動き、頬や唇のかすかな反応からその心のなかをつぶさに感じ取ってしまう。

 尚且つすごいのは、ソンの表情が劇映画でありながらも、ドキュメンタリーのようにしか見えないことだ。

 つづくシーンでは、ソンはボールを投げあうコートの中にいる。ボールが行き交うのを見ている。手を挙げてみても誰も彼女にボールを渡そうともしない。その場にはいるけれど員数外の存在。

 ざわざわとしてゲームがストップするのは、誰かが、ソンがラインを踏んだといったからだ。失格だからコートから出ろという。「踏んでない」。ソンが抗弁しても、見たという。「同じチームなのに」という声。

 のちのち明らかになるのだが、「踏んだ」と主張するのはクラスのボス格の女子ボラで、ソンは彼女から陰湿ないじめを受け、孤立していることがわかる。

 子供の世界はある意味、大人の縮小版だけど、よくもここまで手の込んだイジメを計画するものだと呆気にとられたのは、ボラが休み時間に、自身の誕生日パーティーの案内をソンに渡す。有頂天になるソン。

 プレゼントを手にカードに書かれた住所を訪ねあて、ベルを押す。全身が凍りついたかのように一転するその後の場面はドラマとはいえやりきれない。残酷だ。ボラがやったには、どうすれば相手が傷つくか十分にわかったうえでのピンポイント攻撃だ。

 映画のタイトルの「わたしたち」は誰を指すのだろうか。映画の流れからすると、ソンと、彼女のクラスに転向してきたジアだろう。二学期から転入してくることになったジアは、明日から夏休みという日にたまたま学校を覗きにやってきて、教室にひとり残っていたソンと出会う。夏休みの期間中、ふたりは幼いソンの弟をふくめて一緒に遊ぶ仲となる。(🔽ここから少しスジにかかわるネタバレな話になります)

 おとなしい性格のソンに比べて、ジアは積極的で同級生というよりも姉妹の関係のように見える。
 ソンの両親は共働きで、いじめを受けても親には伝えていない。ジアの家は裕福だが、両親は離婚したらしく、父方の祖母に預けられ、どちらもジアとは一緒に暮らそうとしない。いっぽうソンはどんどんジアに惹かれていく。ソンの家にジアがやって来て泊まったりする仲となる。が、ふたりの蜜月はボラの介入で壊れてしまう。


 新学期が始まると、ジアはソンによそよそしい態度をみせる。クラスでのけものになっているソンとつきあわないほうがいい。ソンと仲良くすれば、ジアも同じ目にあう。態度の豹変から、そう吹き込まれたらしいとわかる。しかし、ソンは理由がわからずに苦しむ。なんとも暗い気持ちにさせられる展開だ。
 つい、これが韓国映画だというのを忘れてしまいそうになるのが、この作品のすごさでもある。仲間はずれにするときの決め台詞が「くさい」というのもそうだし、ソンがシャツの襟首をつかんで嗅ぐ場面にしても、どこの国も変わらないのだなと思った。

 この映画がすばらしいのは、主人公のソンがどこにでもいそうな、ちょっと見ぼんやりとした顔(内面は豊かな)の少女だということだ。はっきりいえばとびきりの美少女ではない。でも、愛嬌がある。「じゃりン子チエ」の仲良しのヒラメちゃんのような存在だ。

 もうひとつ、この映画がいいのは、子供たちの世界だけを描いた作品でないということ。傍にいる大人の世界もきちんと描きながら、子供が抱える悩みがわからない。大人の理解が及ばないもどかしさを映し出している。同時にコドモには、大人のやるせなさがわからない。
 たとえばソンの父親は、アルコール依存症とまではいかないが、日々のうさを晴らすため酔っ払ってクダをまく。子供は、トモダチの前で醜態をさらす父親が許せない。しかし、父親には父親の煩悶があるのだということを言葉になどせずに見せていく。
 うまいなぁと思う。津村記久子が描くの世界に近しい。
 ソンの父親は、なぜか入院している自身の父親(ソンの祖父)を見舞おうとしない。妻と子供たちを病院に送り届けるものの、彼だけが病室に足を運ぼうとはしない。事情があって父親のことを憎んでいることはわかるのだが、具体的に過去に何があったかというようなことは台詞ですら語らせない。それでも、しだいに事情は掴める。父と息子の関係は、おおよそ韓国も日本も変わらないのだと思わされる。

 妻は足しげく義父への面会を繰り返し、夫に面会するように言うのだが、頑として聞きいれない。そうしたやりとりを、ソンは幼い弟の面倒を見ながら黙ってみている。子供は、大人の世界に口出しはできない。傍観するしかないのだ。

「わたしたち」のもう一人のジアも、じつは大人の事情に振り回されていた。両親の離婚がきっかけで、前の学校でいじめを受け、やり直すために、父方の祖母の家に引き取られたのだと時間の経過ととともにわかってくる。
 たまにやって来た父親はジアが見ている前で、恋人らしき若い女とイチャついている。ジアはクラスでは「ママは英国で働いている」。だから、なかなか会えないのだと周囲に言うのだが、ウソだということが判明。あることがきっかけで、ボラのグループの中でのジアの立場は揺らぎだす。

 ささいなことをきっかけにして、いじめっ子の円の中にいたジアは、はじきだされる。突然いじめられっ子におちていく構造も、日本のそれと何一つ変わらない。つまり、いじめというのはどの国にもるものだというのがわかる。

 そういうコドモの世界を細やかに映し出したのち、映画の力強さを感じさせるのは、ラストのドッジボールのシーンだ。ファーストシーン同様に、「じゃんけんぽん」で名前が呼ばれていく。再びソンの顔の大きく映していく。しかしまったく同様に見えて、ファーストシーンとはちがう部分が出てくる。
 コートに立つソンは、これまでのソンであればしなかった選択をする。振り絞る勇気というのか。そこに至る彼女の表情。鼓動が伝わってくる。映画はこれから「わたしたち」の間で起きるかもしれない何事かを暗示して、プツンと終わってしまう。

 ドキュメンタリー的な印象のある映画だけに終わり方にドキドキした。
 そして、「わたしたち」とはもしかしたら、ソンとジアを指すだけでなく、悪役ながら脆さを見せるボラを、あるいはソンの弟も含めた「わたしたち」なのかもしれないとも思えてくるのがいい。

 試写にめずらしく出かけてみたのは、企画に『オアシス』のイ・チャンドンの名前があったのと、オアシスのことを教えてくれた李鳳宇さんのサインが試写状にあったからだ。観られてよかったと思う映画でした。

9月YEBISU GARDEN CINEMAほかロードショー

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「書いた人」で、『マチビト』の石原まこちんさんをインタビューしたときのこと

 

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 石原まこちんさんを「書いた人」(「週刊朝日」2017年8/4号)で取材したときのこと


 小学館の担当編集Nさんからインタビュー場所に提案してもらったのは、多摩川のお好み焼き店だった。仕事場か喫茶店とかホテルのラウンジが定番だが、夕方のお好み焼き店というのは初めてだった。

 時間のすこし前に到着すると、お店からNさんが出てこられた。石原さんがコドモの頃からのなじみの店で、営業時間前にもかかわらず場所をつかわせてもらうことになった。そうしたことはNさんが、すでにダンドリしてもらっていた。
「どうぞとうぞ」とお店のおばちゃん。最初はウーロン茶、しばらくして「これサービス。クルマじゃないよね」とお盆に白い泡の盛り上がったジョッキを4人分出されて恐縮してしまった。せっかくなので「孤独のグルメ」の原作者さんみたいに「泡のある麦茶」ということで、美味しくいただかせてもらいました。

 このお店を選んだのは、石原さんが「中学時代、近くの学習塾の前に寄っていた」というのが理由だとか。どうやら、石原さんとNさんの二人で、写真撮影もある、どこがいいのか考えた結果らしい。そういうのを聞くと、取材を受けてもらったことがすごくうれしくなる。尚且つ、インタビュー記事にも書いたけど、作品に向き合うふたりの関係が「相棒」みたいでうらやましい。

 お店も、すごく居心地がよかった。石原さんが、お店のおばちゃんに対しても「です」「ます」調で話すのを聞いていて、漫画では、ニートな若者たちのちょっとだらしないしぐさを描くことの多い石原さんの、意外なほどのマジメさ加減もうかがい知れた。Nさんとの相談したなかでドッグカフェという案もあったらしいが、「おしゃれすぎるよね」というので、お好み焼き店になったらしい。

 誌面に掲載された写真は、両手にコテをもち、お好み焼きを焼いているところ。カメラマンの慎芝賢さんは、「これって、たぶん使いませんよね。グルメの本でもないし」と消極的で、ワタシもおそらくインタビュー前に撮影した、店頭に置かれていた縁台ふうの椅子に腰掛けて、誰かを待っているふうな写真を使うだろうと思っていた。でも、「写真が面白い」という写真部の上司判断でコテ写真になったらしい。つながりをつくるために原稿の最後の部分にお店のおばちゃんとのやりとりを急遽組み込みました。

 裏話といえば、石原さんのNさんは、ワタシが取材の申し込みの電話をしたときに「イタズラ電話?」と思ったそうだ。
 マンガ本の著者インタビューを「週刊朝日」がするとは思えなかったらしい。ワタシの好みというのもあるのだけど、これまでノンフィクション要素のある漫画の場合だとたまにやってきていて、異例というほどでもないのだけど。でも、過去にやったものはノンフィクションっぽいものに限られているから、ワタシが作品を読み間違えたりしなかったらこの取材はなかったのかもしれない。

「のせる、のせる詐欺じゃないかと思っていたら、電話のあとに送っていただいたメールを見て、本当だとわかりました」とNさん。わざわざ取材現場に出向いてこられた点でも最近ではめずらしい、昔タイプの好漢の編集者氏だった。

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 話が後先になったけど、石原まこちんの最新刊『マチビト』のことを説明すると、不仲だった父親が倒れ、集中治療室に入院した後、病院に毎日通いつめることになった長男トシの物語だ。
 弟や妹、母親、親戚のオジサンたちが見舞いにやってきて、トシと話し込む。トシは「自称マンガ家」で稼ぎがなく、財布を開いても千円も入っていない。病院のコンビニで買い物をしお金が足りず、妹に恵んでもらったりする始末。トシが毎日病院に待機することになったのは、ほかの家族はみんな働いていて、トシひとりだけが時間があり余っていたからで、いいトシをしてニートにちかいというキャラクターだ。

 まこちんといえば『THE3名様』。シリーズは全巻揃えたし、実写版も好きだった。しかし、その後しばらく読者としてご無沙汰していた。新作を買ったのは、「病院の廊下でちゃんと話せる大人になりたい!!」という、カバーのフキダシだった。ひと目でフリーターとわかる主人公トシのさえない風貌もリアルタッチで、グッとくるものだった。

『THE3名様』のファミレスで、ニートな三人の若者がただただダベっているコメディマンガと『マチビト』に共通するのは、舞台が一箇所に限定されていることだ。ちがうのは『マチビト』は、トシが父の入院からの二週間前後の日々の出来事を描いた物語マンガだということだ。

『マチビト』が面白いのは、父とトシが子供の頃から不仲だったこと。父親が弟を可愛がっているのを見て、子供のころからトシはずっと、もやっとしていたことが語られる。
 このままだと不仲なままに親父が亡くなるかもしれない。その日が訪れることが不安で、しかも自分は父親の死を悲しんだりしないんじゃないか…。面会謝絶の父親の病院のソファでとくに何もすることもない、ありあまった時間をすごす主人公と家族の関係の描き方がいい。
 幾日も「待機」が続くうち、待っているのは父親の回復なのか、それとも……とわからなくなる。これってナチス・ドイツ強制収容所を舞台にしたといわれる『ゴドーを待ちながら』に構造が似ている。「週刊朝日」の本のインタビューを申し込んだのも、そうした視点を感じたからだった。

 石原さんにその話をすると、傍にいたNさんに「それはどういう話なの?」とたずねていたのがよかった。Nさんは「3名様」のときから、ベケットのことは感じていたという。

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☝『マチビト』の章話の扉絵。ノイズが、病院の静けさを伝えている

 


 さらにワタシは、いまはエッセイ漫画が流行っていることあり、石原さんも過去にノンフィクション的な育児漫画作品や半自伝的な作品も描いたりしていたので、てっきり『マチビト』もそうした実話ベースの作品だと思ったのだった。
 だから、石原さんと会った際に「大変でしたね」とお悔やみの言葉を述べたほうがいいのかな。でも、たぶんお父さんが亡くなられてから、すでに何年か経って作品にされているだろうから、いまさらな挨拶だろうか……。迷いつつ結局、口にしないままインタビューをはじめてしまったけど。

「もうすこしすると、ここを通りますよ」と石原さんが、元国鉄マンでいまは定年退職して別の仕事をしているというお父さんの近況を口にしたのはインタビューを始めてから、30分以上してからのことだった。思い切り笑われ、
「生きていますよ。そうじゃなかったら、エッセイ漫画になってしまいますからね」と返された。

 そこから現実と重なる部分とまったくのフィクションについて訊いてみた。父と不仲なのはリアル。まじめな営業マンの弟は、じつはフリーランスのカメラマンで、兄弟の設定は現実とは逆転させてあるらしい。すっかり、だまされちゃっていた(笑)。

 よくよく考えてみると、実話だと勘違いしちゃったのは「大人にたりたい!!」のフキダシと、オビの以下の推薦コメントの効果だったように思う。
「深夜のファミレスで大人になる事を拒んでいた先生が、悲喜こもごも描く立派な大人になった事を喜びたい!!」(福田雄一監督)とある。

「大人になった」→大人になるきっかけがあった→それは何?←父の死。みたいなイメージをアタマの中で勝手につくりあげてしまっていたらしい。それくらいエピソードがリアルだということでもあるんだけど。

 取材後に再度読み返してみたが、たとえば後半部分。
 エレベーターに乗ったトシが、病室のある4階に行こうとして間違えて、霊安室のある地下フロアに下りてしまう。戻ろうとしたときに、すっぽりとシーツで覆われたストレッチャーが近づいてきて、降りたのとは異なるエレベーターに乗ろうとするが、黒いスーツの女性から「こちらのエレベーターは病棟に上がらないので、あちらのエレベーターでお願いします」といわれる場面がある。
 
 些細なことだが、病室のフロアに止まらないエレベーターがあるという逸話は、そうした体験がなければ描けないと思ったこともある。
 あるいは、病院にタクシーでかけつてきた母親が「暑っいわね」と上着を脱ぐ場面。トシの目には冷静に見えていた母ちゃん(大竹しのぶ似)が、ジャンパーの重ね着していた。しかも下に着ていたのはトシのジャンパーで、そこから母親の動顛ぶりが伝わってくる。
 でも、霊安室のエレベーターのことは親戚のひとがなくなったときの体験で、ほかにも病院の細部は同業者に話を聞いたりして描いたと言うんだよなぁ。

 インタビューしながら、すっかり読みが外れて、困ったなぁ、どうしょうかと思ったものだった。困りながらも、インタビューじたいは、作品に直接関係しない「満州馬賊とケンカしに船で密航したジイチャン」の話や「秘密結社の○○に関わっている△◇さん」の話とか、どんどん脱線して、ここ何年かでもハチャメチャで面白いものだった。さすがに書けないものが多いけど(笑)。

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☝『マチビト』の表紙をめくると、パラフィン紙が一枚挟んであり、作品に対する作り手の憎らしい工夫が施されている。読み終えてから見返すと、グッとくる

 ところで石原さんいわく。『マチビト』には、ニートが自立するきっかけをつかむのは、どんな時かということがテーマになっているという。
 反発しながらも依存していた親がいなくなるというのは人生最大のピンチであるとともに、自立のチャンスでもある。「さすがにこれは、やべぇぞというところまでいかないと人は動かない」。これは自身もニートだった時期があるからこそ言えること。「ピンチとトコトン付き合うと光明が射すんですよ」と言うのがやけに印象に残った。

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インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/