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わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

ペットボトルの数が多すぎると思ったけど、

ノイズ

  きのう、テレビ東京のヒット企画、路線バスの旅をやっていた。蛭子能収さんと太川陽介さん、それに今回はゲストに野村真実さんを加えて三人で、路線バスを乗り継いで、静岡県の御殿場から新潟県直江津を目指すというもの。

 順調に見えて、どんなアクシデントがあるかわからない。県境でバスは途切れていて、バス停にたどり着いてみないと次につながるかわからないし、日に1本しかなくて出た直後なんてこともある。地方はクルマがないと生活できないようになっているのがよくわかるのと、それでも日に1本の路線バスが走っているのが、日本のいまというものを映し出している。狙いはともかく、すごく社会派ドキュメンタリーでもある。蛭子さんのゆるゆるさで、まったくそんなことを頭のなかで考えさせないが、蛭子さんの描くマンガはシュールに社会を批評するものが多かった。

 きのうので、印象的だったのは、次のバス停を探して山道を歩いていると、通り過ぎたトラック運転手が呼びとめ、「これ冷たくないけど」とレジ袋いっぱいのお茶のペットボトルを差し出した。とくに名乗るわけでもなく、ちょっと言葉を交わしただけなのだが。

 だけど、三人に10本ちかいペットボトルは多すぎだよなぁ。もらった太川さんがそれからしばらく、ずっしりと重い袋を手に坂道を歩くのをカメラが捉えている。こういうのって、ありがた迷惑だよなぁ。

 笑ったあとで、ああそうか、運転手さんは何も三人にだけお茶を渡そうとしたのじゃないんだ。うしろについているスタッフの人数を計算して、あの数になったんだということに気づいた。

 いつも三人の会話から、番組のスタッフが同行していながら、それを意識させないでいた。宿を決めるときになって、三人なんですが、三部屋空いてますでしょうか。蛭子さんが、訊くときは、「最低三部屋」という。さらに空きがあればスタッフも同じ旅館に泊まったりするのかもしれず、そういうちょっとした蛭子さんなりの気遣いがうかがえたりするのだが、ペットボトルのときはまったくスタッフのことが見ているこちらの意識として抜けていた。

 でも、そうだよなぁ、三人にだけお茶を渡すなんて、ふつうはしないよなぁ。そこにいるだけ用意する。そういうのが、ふつうの感覚だなぁとあらためて思った。

 ときおり、映画とかの撮影現場とかに取材でお邪魔したりすることがあるのだけれど、そういうときに目にいくのが、スタッフが集まる休憩場所なんかに置かれた差し入れのお菓子。

「○○さんからいただきました」と俳優さんとかの名前が書いてある。遠慮して、最初はなかなか手をつけないもので、ある現場で、「あら、これおいしいのよね、もう一個いただこうかしら。あなたたちも、いただいちゃなさい。ほら」と菓子箱を手に、映画の役そのものの世話焼きのおばちゃんのように周囲に声をかけていたのが、樹木希林さんだった。あれから、どうもワタシの中の記憶は、樹木希林さんといえば、「あなたたちも食べなさい」と差し出されたことにつながっている。希林さんは人に対して分け隔てのないひとで、あれは、原田芳雄さんと夫婦を演じた『歩いても歩いても』(是枝裕和監督)だった。

 

 映画といえば『わが母の記』。仕事のもののついでに、観逃していたなぁとツタヤで借りてきた。樹木希林さんがカバーに写っていて、観なきゃと思ったのだ。

 最初のところで、うん? みたよな、これ……。樹木希林さんの娘さんが母親を演じるシーン、記憶にある。

 が、始まって数分が新鮮に思えて、いや、みてないわ。……が、しばらくして、ああ、観たみた。そこからはほぼ記憶していたけど、最初の数分の景色がまったく記憶から抜け落ちている。2012年の公開で、DVDを借りたのだ。

 トシをとるにつれ昔のことは鮮明になるのに、近いほうの記憶があやふやで、ままあることとはいえ、軽いショックでもあった。

 それはともかく、原田眞人という監督は、社会を描きながら、個人のほうに視線がいくひとなんだろうなと思った。あさま山荘事件を、警備の警察官僚の視点で描いた作品にはどうも拒絶感があって未見なのだが、一度見てみようかと思った。

 というのも、『わが母の記』(原作は井上靖)を見ていて、戦争を挟んで、長男をひとに預け満州に渡らなければならかった母(樹木希林)と、ひとり祖父母の家に預けられたために母親から捨てられと思い込み、戦後に満州から引き揚げ、家族で暮らすようになってからも恨みをとけずにいた息子(役所広司)との関係を軸にしたこの映画、暮らしのちょっとしたことを重ねて重ねて描いている。

 父親役は三國連太郎で、出番は一場面。役所たちが見舞ったあと、数日して亡くなる。きょうだいが揃った場面で、役所に対して妹たちが、ほんとうにお父さんに似てきたわねと笑うシーンがある。

「似てないよ」と役所が強くいうと、「いまだって、ほら」とタバコの箱を無意識にトントンと音をさせているのは父親そっくりだといわれ、役所の手がとまる。考え方がどうとかじゃなく、そういう身振りに血縁はあらわれるものだよなぁと思った。

 そういえば、「ビューズ」という廃刊になった雑誌の企画で、三國さんと佐藤浩市さんの対談の司会を担当したことがある。ふたりが映画で初めて親子共演するというので企画された対談だったが、正味90分くらいの間、ふたりが相手の目を見て言葉を交わすということは一度もなく、正直対談にはならなかった。記事も、司会を挟んで会話が進んだ様子をありのままにドキュメンタリーっぽくまとめた。まだ、互いにわだかまりがあった時期だけに、編集者も含め周囲に緊張感があった。

 三國さんは、ワタシが質問すると、ワタシに向かって話し、その間、佐藤さんは別のほうを見ていた。

 佐藤さんが話している間、三國さんは、目を硬く閉じ、耳をそばだてる。テーマは「血縁」に関わるもので、ちらっと佐藤さんが横目で、三國さんをみやり、唇をゆがめる。そんな顔の変化が印象に残っている。あのときもふたりを見比べていると、互いの一言一言を聞き逃すまいと、じっと耳をそばだてるときの身体の強張らせ方が奇妙に一致していた。父子だなぁと思ったものだった。

 それから十数年して、昨年、阪本順治監督の新作絡みで、佐藤さんにすこしインタビューする機会があった。三國さんが亡くなられて日が浅いこともあり、自然と三國さんについて話が及んだとき、「似ているといわれると若いころは反発があったけど、もうこの歳だし、血がつながるのは確か。そういうもの否定したってしょうがない」と、力の抜けた口ぶりで、受け止めるようになってきたという。横顔で黙っているときの間の取り方は、三國さんそっくりだった。

『わが母の記』にもどすと、息子は母親に捨てられたとばかり思っていた。私小説を書く彼は、それをバネにして作家になったところもある。自分でもそう理解しているという。母親の痴ほうも、だから彼にとっては、娘たちの成長や些事とともに小説の題材にしていこうとする。

 しかし、それは誤解だったと知られるのが、映画のクライマックスで、樹木希林がその証拠に、とあるものを取り出し、読んで聞かせるシーンは圧巻だ。このときも正体ははっきりしていないのだが、それだけに樹木希林の過去の一点を見つめる姿は胸をつく。

 映画の中に描かれる小さな出来事の一つひとつは、そのための入念な布石ともいえる。役所の誤解を正す機会はそれ以前にもあったのだが、「昔のあなたはそういう話をしても聞き入れなかったでしょう」と身内から言われ、そうだったかもしれないと役所がうなずく。「捨てられた子」というストーリーは、ある意味作家が好んで用いやすいモチーフでもある。浅田次郎さんなどは繰り返し繰り返し、父に置き去りにされた話を描いていきた。一緒に暮らせなかった寂しさ、恨みが物書きとしての強いバネとなることもある。

 そうした個人の背骨みたいなものを描くのが映画監督、原田眞人の真骨頂なのだろう。この映画でいうなら、悲劇を生んだのは戦争という時代であり、そういう社会設定ヌキに個人は描けないというのも考えにあるのもわかる。その上で、個を徹底して描こうとする姿勢につよいものを感じる。たぶん、以前に見たときよりも、今回のほうがいろいろ思うところがつよかったのは、こちらも年輪を増やしたということか。

   ああ、路線バスの番組がいいのは、ネット検索とかしないこと。バスの運転手さんに聞く、駅の案内で聞く、通りかかったひとに聞く、はしても、スマホは使用しない。対話というローテク頼りという掟を守っていることだわね。尚且つ、なれなれしくはならない。

 

 

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わが母の記 [DVD]

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インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/