町内会ノイローゼ 「ムカデ競走」に出る人がいないと、誰が困るのか?
『“町内会”は義務ですか? コミュニティーと自由の実践』紙屋高雪著、小学館新書から、
選挙の投票率が半分に満たないどころか、有権者の三分の一あたりの低調時代に「町内会(自治会)」は、重荷ではないでしょうか。
本書は、なり手のない団地の自治会長を、仕方なく引き受けてしまった著者の体験ノンフィクションです。
町内会というと浮かぶのが回覧板。ワタシが前に暮らしていたところでは、宣伝チラシまでもが紛れ込んだりして、ほとんど“ババ抜き”のようにお隣のポストに突っ込んでいました。いま住んでいるマンションには管理会社があるだけで、町内会もあるのかどうかわりません。回覧板のかわりに掲示板があるだけ。快適です。
そもそも町内会というのは外から見ているだけだと、何をやっているのか。それでも大変なイメージです。
著者も最初は、月に1回程度、会議に顔をだすくらいならと思い、引き受けるのですが、これがとんでもないことに……。
団地の自治会とは別に、小学校の「校区」単位の「自治協議会」という上部団体がつくられていて、団地の町内会の役員になるということは自動的に上部団体の各種会合に参加を求められるわけです。これが二つ三つじゃなかった。
運動会をはじめ、防犯、防災、男女共同参画、交通安全……。
運動会は各町内会がテントを張り、「ムカデ競走」「町内会対抗リレー」といった各種競技に、各町内会から「一つの参加者もれがないよう」に言われる。
ああ、ムカデ競走に出たいよー、体育祭にわくわくだー、という大人って、どれだけいるでしょうか。
紙屋さんの団地には子供も少なく、体育祭への参加者はほとんどない状態でした。それでも「参加者を出す」ようにせっつかれ、毎年、高齢の役員の二人がかわるがわる全部の競技に参加しておられたとか。
ヘトヘトです。
協議会の会議では、エントリーもれのないように事前に何度も打ち合わせする、その「まとめ役」というのも役員も設けられていて、紙屋さんは町内会長就任そうそう、指名されます。ここから「事件」に発展していきます。
ちなみに、紙屋さんは、大学時代に自治会の活動経験があるそうで、町内会長を頼まれたのもそういう経歴を見越してのこと。本書では町内会という組織のもつネガティブなところを指摘しながらも、紙屋さんは「必要な組織だ」と考えるひとです。
紙屋さんは、まず団地の住人たちの実情にてらして「ほとんど出場者がいないのに、なんでまとめ役をしないといけないのでしょうか?」と疑問を抱きます。
素朴な問いかけだと思いますが、「みんな公平に分担してきたのに」と他の町内会の役員さんたちは猛反発。口々に批難を浴びせます。紙屋さんはさらに「おかしい」と思うわけです。
なんで、そんなに感情的になるのでしょうか。
ことは運動会にとどまらなくなります。
地域には各町内会が関わるいくつものイベントや団体の会合。もともと役員のなり手のいない団地の自治会ですから「出席する」となれば紙屋さんしか考えられない。「まともに出席していたら、身がいくつあっても足りない」と、不要と思われるものには「欠席」を告げます。
そうすると会議のたびに、ジャンジャン電話がかかってくるのです。
「紙屋さん! 今日は環境委員会ですけど、もうとっくに始まってますよ!」
事務担当の女性の詰問の電話です。仕事で無理といえば、「代わりを出せ」「なぜ出さない」と叱責されてしまいます。
そんなことが度重なり、紙屋さんはとうとう決断します。
団地の全住民あててアンケートをとり、「運動会に出たい人が手をあげて実行委員になる方式」を決定するわけです。しかし、そこまでにかなりの時間と労力をかけています。やるのも、やめるのもタイヘン。
そして、一年後。紙屋さんは、校区の協議会の会議で吊るし上げにあうのです。
「一人ひとり予定が本当にダメか詰めていったんですか」
会議に人を出せないという紙屋さんに対して、協議会のコワモテの会長さんは、
「成果を見せんかい!」と拳を机に叩きつけ、
「なんでお前のところの町内会は出てこんのか。成果として出とらんのよ。お前の努力が足りんのじゃ」
と肉迫してきます。
たとえ年長者であっても、いい大人なのですから、いくらなんでも「オマエ」呼ばわりはどうなんでしょう。
運動会のムカデ競走に出場する人を確認する会合に人をだせるかどうかという議題で、恫喝。傍観者の目でみると、ギャグ漫画です。
会長さんからすると、ここでひとつを見逃すと、シメシがつかない。全体に波及するという危機感なのでしょうけど。
きっぱり「できない」と紙屋さんがこたえれば、
「なんでじゃい。俺はやったぞ。お前ができとらんじゃないか」
さらに怒鳴られます。
地域の会長さんしてみたら、みんなで盛り上げていくものなのに、エゴで参加しないというのは、けしからん。甘えだ。許せぬ輩に見えたのでしょう。
シーンを抜き書きすると、いかにも旧弊なボスタイプを思い浮かべがちですが、紙屋さんの説明によると、「旧弊」だった協議会を改革してきた革新者で、社会活動家の湯浅誠さんを講演者として呼んだりしたこともあったとか。
疑問なのは、住民にとってほんとうに必要なのかどうか不確かな「行政の下請け団体」の多いこと。それらの団体になぜ参加を強要されたりするのか。だれのための組織なのか。
紙屋さんは、「町内会とはどういうものなのか」いろいろと調べていきます。
詳しくは本書に譲りますが、町内会は「行政の末端」「下請け」的な意味合いの強い組織です。
行政の雑務(回覧板、広報誌の配布、防犯灯の管理など)を代行するかわりに、町内会には補助金が支給される。支給には条件が設けられていて、地域の各種組織が機能していることがあげられる。つまり役員さんたちが、「人をだせ、だせ」と声を荒だてる背景には、補助金が作用しているのでしょう。
ただ、カネだけでもない。むしろ正義感に燃えた熱血なひとがトップに立ち「満点」をとろうと躍起になる。そういう図式かもしれません。
結果、先の会長さんのように、消極的な連中をみているだけでムカつき、許せなくなる。「正義感」のバクハツです。
そんなこんなで、ひとり吊るし上げを受けた紙屋さんは嫌気がさし、「これでは仕事に支障をきたすだけでなく、精神を病む」と自治会長をやめることにします。
後継者の募集を貼り出したものの、ひと月の間、無反応、団地の自治会は「休会」となります。
ここからです、本書が面白いのは。
「団地の中でやってきた、夏祭りや餅つきだけは続けたい」という声に、紙屋さんも応じます。新たな自治会づくりのスタートです。
「会費なし、義務なし、手当てなし」の完全ボランティアを掲げ、手伝えるひとが登録する。いっさい強要のない「ゆるゆる」の組織をたちあげていくのです。
〈「気軽に参加する」ということは、裏返せば「気軽に断れる」ということでもあります。町内会には「出ごと」が多い印象があります。会議だの行事だのつきあいの飲み会だの。そういうものに「出なきゃいけない」ってなるどうでしょうか。平日はくたくたになるまで働いて、せっかくの休日にまた町内会の「仕事」をやる、なんてことは割に合わないと思っても不思議ではないと思います。〉
新自治会は、つらかった「校区」の協議会での出来事を反面教師にしています。「やりたい人が、できる範囲でやる」が原則。自発的な参加によるものすることで、住民の参加意識も変わっていったといいます。
「やりたくもない」のに「やらされている」町内会から、やりたいこと、必要なときに集まる自治会へ。紙屋さんたちの取り組みは「町内会はなぜ不人気なのか」を根っこからあぶりだしています。
ところで、町内会は法的には「任意」参加にもかかわらず(05年、最高裁の判例で「脱退は自由」と認められた。本書にも記載)、「義務」であるかのような圧迫感を抱かせるのは、たとえばこんなことがあるからでしょう。
以前、ワタシが住んでいた町内会で、どうにも納得しがたい出来事があり、会費の集金にあらわれた年配の女性に「退会を考えています」と伝えたところ、ぎょっとした顔で、
「そんな勝手なことできません。義務です!」と声を大きくされ、「おやめになるなら、今後ゴミだしもできませんよ」とすごまれたのです。
ゴミの収集車がやって来る指定の場所は、町内会が管理しているものだから、会員以外には「使わせない」とおっしゃるのです。
「ワタシはおかしいと思いますが。そこまで言われるなら、けっこうですよ」と返事したのには理由がありました。
もともと、その指定場所はわが家から遠かったので、隣接する町内の指定場所を使っていたからです。それでも、女性の勢いには、ゴミ出し日に行動を監視しかねないくらいくらいの迫力がありました。
調べてみると、町内会そのものへの加入は「任意」とはいえ、女性が言うように、ゴミの収集場所に関する行政の見解は、住民の話し合いに任せる立場。逃げ、ですね。
こじれた場合、ゴミをいちいち処分場まで運んでいかないといけないという事態も起こりえたかもしれません。いっとき騒がれた「ゴミ屋敷」が頭をかすめました。
特異な住人のキャラクターがクローズアップされますが、こうしたなりゆきからゴミだしが億劫になって、というケースもなかにはあるかもしれないと思ったものでした。
「町内会をやめます」と口にしたとたんに、町内から半ばヘンジン扱い「村八分」というのもあるんでしょうね。
“町内会”は義務ですか? ~コミュニティーと自由の実践~ (小学館新書)
- 作者: 紙屋高雪
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2014/10/01
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