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朝山実が、読んだ本のことなど

檀家や「ハカジチ」て?

お寺の収支報告書(祥伝社新書)

『お寺の収支報告書』橋本英樹著(祥伝社新書)

 

 コドモのころ、ダンカという言葉を村のひとが大勢集まるたびに耳にしました。「お坊さん」「ぼんさん」「あのボウズ」といった言葉と組み合わさるものの、それが何を意味するのか、長いあいだよくわからぬままでした。

 うちの家もそのダンカに入っていて、ギモンに思っていたのは、ダンカの大人たちは袈裟を着たお坊さんと顔を合わせば、おもねるように頭を下げるのに、いなくなれば「ボウズ」と呼び捨てる。裏表を見せられるのは気持ちのいいものではありません。

 どうやら大人は好んでダンカをしているわけではなさそうだというのは、口調からも伝わってきました。自分の意思とは関係なく、学校に行けばクラスに配置されるように、ダンカもまた一員に組み込まれるものらしい。だから、悪口を言いながら、頭を下げるんだ。そう思っていました。

「檀家」というのは、お寺を支援する村の家々のことで、いわばサポーターみたいなもの。サッカーとちがうのは、応援するチームを選べません。ご先祖さまの時代(おおよそ江戸時代)に、あんたはココのお寺の所属と決められて以来、変更がきかない。コドモですから、難しい意味はわからないものの、束縛されているようで「いやなもんやなぁ」と感じていたのを覚えています。

 

〈『美坊主図鑑』という本があるそうです。眉目秀麗なお坊さんが収録された写真集です。美形だからどうというわけでもありませんが、傲慢なうえに不細工な坊主だったら、外観だけでもマシな人を選ぶでしょう。いまの檀家の制度が完全に崩壊して、どのお寺で葬儀をやるかが自由化されたら、「美坊主」だって、選び放題なのです〉

 述べている橋本さんは、埼玉県熊谷市にある曹洞宗見性院」のご住職。現役のお坊さんであるにもかかわらず、「檀家制度の廃止」を唱え、2年前に実践したというんですね。

 お坊さんが、ファッションショーのモデルを務めたりする時代ですから。そういう目で見ると、「檀家」って野蛮というか。「わたし、こっちのお坊さんがいいわ」と思っても、「昔からうちの家はあの寺のダンカだから」って引き離されるのは理不尽ですよね。

 

「家の宗派」をふだん意識することは都会で暮らすとほぼありませんが、問われるのはお葬式をあげるとなったとき。葬儀屋さんから「なに宗ですか」と聞かれ、

「なんだっけ? よくわからない」

 その場になって、調べはじめるひとは多いもので、ワタシもつい数年前までは、なんとなく浄土真宗だと思っていました。ちがいましたけど。

 交通事故に遭ったりして、自身の血液型を知るひともいるそうですが、Aだと思い込んでいたらBだったみたな。似たようなものでしょうか。ワタシは父の葬儀の喪主を務めたときに、何宗かを知りました。母親は信心深いひとだったので、何度も教わったりはしたのでしょうが、覚えてないわけです。

 つまり信心が皆無。なので、ジブンの葬儀はもったいなくて、お経は丁重にご辞退したい。信心もない人間に念仏は馬にするようなものでしょうから。ローリングストーンズで見送った友人にならい、怒髪天とか浜田真理子さんの唄で送り出してもらいたいなぁ……。

 て、葬式も戒名もお墓も要りませんと言うてるわりに、やってほしいんかいジブン(笑)


「美坊主 ファッションショー」の検索結果 - Yahoo!検索(動画)

 

 ハナシを戻します。橋本さんのご実家はお寺で、子供の頃からお坊さんになるものと考えていたとか。30代のときに4年間、アメリカ留学をし、ロサンゼルスの日系寺院で手伝いをした体験があるそうで、のちのち「檀家制度の廃止」にいたる決断につながっていったそうです。

 日系の寺院では、信徒を増やすため、子供たちに公文式の勉強を教えたり、お正月にはおせちをふるまったり、ニュースレターを発行したり、教会の日曜礼拝のようなものを催したりと、コツコツ努力を重ね、ひとも大勢集まったといいます。それに比べたら、なんと日本のお坊さんは……という嘆きが綴られます。

 

 橋本さんは冗談めかして書かれていますが、昔からある「檀家制度」をなくそうなんて言い出すと、同業者の風当たりも悪い。当時の苦労もすこし書いておられます。

 それでも廃止に踏み切ったのは、危機感とアメリカでの手ごたえが背景にあるようです。

 橋本さんは、檀家制度の廃止に先立って、ご自分のお寺で葬儀をするように動きます。「葬式仏教」のどこがいけない、という。ワタシもそう思います。

 現在の葬儀屋さんがパッケージで仕切るのはむしろ「新しい」ことで、お寺がお葬式を行うのはどちらかというと原点回帰にあたります。

 産地直送の野菜販売みたいなもので、削れるところを削っていく。いちばんカットできるのは、葬儀業者に渡す裏金です。

「お気持ち」の相場を葬儀屋さんが示し、寺はいただいたお布施の何割かをキックバックする。もちつもたれつ。業界暗黙のルールが根付いているそうでが、これをなくすことで、ぐんとリーズナブルになり、寺の経営も安定する。

 

「戒名」についても、橋本さんは疑問を投げかけておられます。

 生前に仏の弟子となるにあたって「戒律を守る誓い」を交わし、師匠から授かるのが戒名だというのは、以前ワタシもいろいろ本を読んだりして調べました。そういう、本来のいわれをお坊さんが、葬儀の法話ででも説明したりしないので、「戒名ってボッタクリ!?」と疑念を生むのでしょう。

 まあ、よくよく考えてみたら、「死んでから弟子にしてもらう」というのもヘンなことで、これについても、橋本さんは、

〈もちろん、このような死後出家の考え方が、元来の仏教にはないものであることは、いうまでもありません。仏教の原理から考えてみたら、仏弟子を名乗っておきながら、修行もしない、戒も守らないなどということは、ありえないわけです。ところが、当人は亡くなっています、修行しようにも、戒を守ろうにも、そんなことは不可能でしょう〉

 まあ、戒名ひとつ書いて渡すだけで「はい、きょうから弟子です」なんて、カップヌードルみたいじゃないですか。「そんなに簡単なので、いいんですか!?」と、ひと前で、お坊さんも訊かれたくはないのだろうなぁ。

 ワタシが父の戒名をつけた経験からすると、「戒名」は故人を偲ぶきっかけとして、あっていいというか、考えているあいだにいろんな記憶がよみがえってきて「やってみていいもんだなぁ」と思いました。お坊さんまかせにするよりも、故人の思い出をああだこうだと話したりしながらの家族参加型が理想でしょう。

 父の場合には「ひとのビジネスに立ち入るな」とお叱りちょうだいしましたが(苦笑)。

 橋本さんも説明されていますが、「戒名」というのはもともとお釈迦さんの教えになく、しかも日本にしかない制度。先日、ハロウィンを楽しんだのと同じというとなんですが、日本はジブンたちに合わせて加工するのが上手というか、仏教のオリジナルにはない、あとづけで意味をこしらえたものなのですから、遺族が納得したらいいだけのことでしょう。

 と考えていたら、なんと橋本さんはこう書かれています。

 宗派のきまりごととして、戒名を授けるのは「師」としての資格を有しないといけない。つまりお坊さんの「特権」にあたるもの。とはいえ、そもそも修行したわけでもない死者に授けるのですから、授かる側が「この人にお願いしたい」というなら、お坊さんに限らずともよいのではないかと言うんですよね。

 すごいなと思ったのは、橋本さんの寺院では戒名をつけない、「俗名(生前の本名)」での葬儀も引き受けているとのこと。寺によっては俗名じゃだめだと断られるケースが多いと聞いているので、この一点をしても画期的です。

見性院では、この場合、二十万円でお受けしています。信士位の戒名授与がつくと、三十万円ですから、戒名がないぶん、お手ごろです〉

 さらには「戒名」に細かい階級がもうけられ、値段の「相場」があることは「差別」でおかしいともおっしゃる。背景には、見栄で高い戒名を欲しがる風潮もあったりするからなのでしょうけど。

 書いているのが外部のひとならまだしも。どれも現職のお坊さんの立場だとなかなか口にできないこと。〈戒名とは、たった数文字の言葉が大きな収益を生みだすものだから、まさに「打出の小槌」なのです。いったんこれを手にすると、なかなか手放せません〉とまで。

 圧巻は、お寺ともめ、お墓を移すというところまでハナシが展開したときに、必ず「いくらか出せ」と迫られる。「離檀料」とかいうそうですが、百万円なんてケースもある。こういうのを「墓質」というのだとか。橋本さんは、そういうときのためにこう助言します。

〈もし、「離壇料」を求められたら、「そんなもの、なんで払わなゃいけないんだ、強欲坊主」と返してください〉

 すっきりする発言の多いこと。いろんなお坊さんがいるものだなぁと思いました。

 

お寺の収支報告書(祥伝社新書)

お寺の収支報告書(祥伝社新書)

 

 

 

父の戒名をつけてみました

父の戒名をつけてみました

 

 

 

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/