#佐藤正午史上最強の小説!!
いろいろあって、ものを書く気力がわいてこなかったし、ひと月ほど本もほとんど手にしなかった。ようやく年明けからちびちび頁をめくっていたのは佐藤正午の『鳩の撃退法』(小学館)。上下本で、最初はささいなことをあれこれ書いていて、ちょっと村上春樹っぽくて、すぐにうとうとしてしまい、いっこうに読みすすまなかったけど、下巻にきてどんどん残り頁がなくなった。
この本について言いたいことがいっぱいある。書こうとするとネタバレになりかねず、といって触れないと……という小説。
簡略化していうと、「津田」という四十近い小説家が、彼は直木賞をとって売れたらしいが、いまはワケアリ失踪中の身で、地方都市で風俗店のアルバイトをしている。女の部屋を転々と居候している津田は、細かいことに執着し自己中心な男なのだが、ただ小説については真剣で、どこからも注文もなく(失踪中だし)書いているものは、身近に起きた幼児を含め親子三人が忽然と消えた事件に絡んだハナシで、情況から誰もが悲しい結末を予感するわけだけど、彼はその一家を救おうとする。もちろん小説の中でのことだが。
その小説は現実とリンクしていて、津田は「あのひと直木賞を三回もとった作家なのに……」とコバカにされながらも、そのことにのめりこんでいく。その作中小説がどんどん語られる。ワタシたち読者はそれを読むのだが、ところどころで「津田」が顔をだし、彼の置かれている苦境を語りだす。なんじゃこりゃ!?筒井康隆ふうというか。
ああ、ぜんぜん簡略じゃないな(笑)。
でも、小説とは何のために書くのか。
なんのために本は存在するのか、ということを考えさせられもするし、思わぬことが失踪した親子のまわりで起きていたことを知るにつれ(だんだんいま読んでいるのが津田を取り巻く「現実」のことだか、彼の書く「小説のなかの話」なのか不分明になってくのが面白い。
ピーターパンの本がずっとキーとなっているけれど、(そういえば小さいときに母親から買ってもらった本で読むのがメンドくさくて海賊船でチャンバラしている絵だけを何度も見ていたのをつい思い出した。おれ読書は大嫌いだったんだよなぁ)、ひとつ確かに伝わってきたことがある。小説くらい、たとえばヒサンな事件で犠牲となったひとたちを救わなくてどうする。津田という作家がホンキで、おそらくは佐藤正午自身がそう考えているらしいことだ。
津田が、あなたの書いているものは結局何なのか。実際の事件の知り得たことを書いているのか、書いているのはまったくのフィクションなのか。問われて語るシーンがある。
「僕が小説として書いているのは、過去にあり得た事実だ」
過去に実際にあった事実は「新聞記事」で、過去にあり得た事実を書くのが「小説」だと津田はいう。さらに、すぐれた作家の手にかかると、その事実と小説内の出来事の境目がわからなくなるものなのだと。女の部屋を転々とする男がいうのだからどうかと思うが、この部分(下巻157ページ)は津田がおちゃらけた津田ではなくなっている。力が入っている。
つまり、津田に投影されるこの小説の書き手である佐藤正午が目指す究極の小説についての解説とも読める。
なぜ書くのか。
書かなくとも世間のひとは困らない。
食うため金のためなのか。
ならば、風俗のアルバイトでいいではないか。「津田さんは直木賞を三回もとった作家なんだよ」と周囲のものが津田にいうシーンがある。二回だったかもしれない。アマゾンを覗いたら、こんなデタラメを書くような作家のものなど読めたものではないという威張った寸評を見つけて笑った。まんまと落とし穴に足をとられたひとがいる。
もちろんジョークで、津田が置かれている環境を台詞で紹介しているだけのこと。まわりにいる誰も彼もが本など必要としていないということを示唆している。それを知りながら、津田は書くわけだ。本を読むなど「変わり者」だと嘲笑されながら、でも書かずにはいられない。
では、いかなるものなら書くに値するものなのか?
主人公は妙なことから偽札のまじった大金を手にしてしまい「裏社会」の男たちから追われる……というミステリーの謎解きのようなパッケージをまといながらも、これは思念的なところから構想された小説というわけだ。あえて対象化することもなかろうが、テレビ屋さんからベストセラー作家に双六あがりひとのいう、面白くするためならノンフィクションにウソをまぜるというようなアホさ安易さはここにはない。
ほんとうは、きのう読んだ大宮冬洋さんの『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました。』(ばる出版)について書こうと思ったのだけど、それはまた。ワタシはユニクロとはぜんぜんちがうけど、はじめて就職したときの職場のひとたちに会いたくなる本です。