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わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

“透明人間”に徹してきた古賀さん、“牛の仕事”を経験した佐川さん

 
佐川光晴『主夫になろうよ!』(左右社)を読みながら、東京大学教養学部×博報堂ブランドデザイン『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』(アスキー新書)を、パラパラめくってみた。

 

主夫になろうよ!

 

雑誌の企画で、作家の佐川光晴さんと、小学校の先生をしている鈴木乃里子さんご夫妻の話を聞くので、佐川さんの新刊を読んだ。

『主夫になろうよ!』は、「夫婦対談」なら、ちょうどこの本の巻末に載っているというので、送ってもらった本だ。

こういうのは助かるものの、困りもする。いわゆる「虎の巻」にあたり、ネタがかぶってしまうからには、なぞっちゃったらおしまいだ。さりとて、ネタ元は同じで、そうそう異なる話があふれ出てくるわけはないし…。

 

佐川さんは、「牛の仕事」を10年続けたのち、小説家に転じたひとで、大学を出て勤めた出版社を社長と喧嘩して一年だか半年だかで退職、思うところがあって大宮の屠畜場に就職し直した(まだバブルの頃で、北海道大学を出たエリートがなんでわさわざと周囲は思った)。そのときの経緯は『牛を屠る』(双葉文庫)に詳しい。←食肉加工の現場が、とくに働いているひとたちの生活や気質がよくわかるノンフィクション。

 

牛の仕事は、昼過ぎに終わるのと、妻が学校の先生をしていることもあり、日中は家にいる夫が食事の支度や洗濯や片付けをするうち、佐川さんは「主夫」になったという。

ちなみに「佐川」は旧姓で、長男の誕生とともに妻の鈴木姓にしている。夫婦別姓でやっていたが、子供にかかわる書類とかの手続きを考えたら、いろいろ面倒だし「うちはきょうだいも多いから」というのが佐川さんの判断だったという。

 

ま、そのあたりの詳細は、ワタシがまとめる記事には出てくる、と思う。

 

資料として読みながら、『主夫になろうよ!』のこんな文章に付箋をつけた。

〈小説家=個性的というのは神話である。そうではなくて、自分が個性的でなくてもかまわないと心底納得したところから表現は始まるのてはないかと、わたしは考えている。〉

夫婦にまつわる話とは、それるけど。

佐川さんは、奥さんのご両親が暮らす実家の敷地の奥の、こじんまりとした離れで、ふたりの息子さんたちと暮らしてきた。

ノートパソコンを開くと仕事場にもなる「居間」の天井ちかくには、おおきな熊手が飾ってあった。最初は1万6000円を支払い、年々千ずつくらい金額を足していくものらしい。「お気持ち」相場で、求める側が値段を決めるのだが、「いくらでも」というもののおのずと最低価格というのは決まっているらしい。

部屋には、所せましと子供たちが描いた絵や家族の写真などがいっぱい飾ってある。にぎやかだ。なんら、つかしい感じの申し分のない家族ぶりで、太宰とか谷崎とかいった昔の小説家と比べるのもなんだが、そのひとたちを作家らしいとする、ぜんぜん作家らしくはない。

 

佐川さんの初期の作品、とくに『縮んだ愛』を読むと作家としてもがいていたのがわかる。いわゆる純文学タッチで、いまの作風とはずいぶんとちがっている。評価はされたものの、そんなには売れなかったみたいだ。

ワタシは、どろどろズルズルとした、けっこうこの時期の作品が好きだったりするのだけど、人気シリーズの『おれのおばさん』のように親しまれる作品を書くまでに、佐川さんなりの煩悶はあったのだろう。けど、そんなジメジメとしたことは彼は語らない。

カッコイイと思う。

 

で、「個性」なんだけど。

こないだまでケイクスというwebマガジンで連載していた「なかのひと」シリーズ、「モーションアクター」の古賀亘さんの話に、佐川さんの話は重複するところがある。

 

古賀さんは、ジャッキー・チェンのようなアクションスターになりたいと思って、アクションの世界に入ったものの、なかなかアクション俳優として表に出て活躍することができないまま、「顔のでない」スタントマンの仕事や特撮ヒーローの「なか」を演じることを続けていた。

そうこうするうち、「顔」どころか「姿」すらも映らない「モーションキャプチャー」の仕事と出会うのだけど、ここから古賀さんの意識は変わっていく。

モーションキャプチャーの仕事は、画像をCG加工するリアルなゲームには欠かせない、ベースとなる「動き」を担う。「モンスターハンター」とか「バーチャルファイター」とか「鉄拳」とか、海外でもヒットしているゲームのキャラクターの「動き」を担当している。つまり、データーとなって残るものの、視覚化された彼の姿をお客さんは目にすることがない。
いわば「透明人間」にして「怪人二十面相」のような職業で、聞くと「俳優として個性のあるタイプは適さない」という。

「動き」を演じる限定された仕事にあっては、アクターの「色」が出てしまうといけない、「自分」を消すことをこころがけるのだという。作家とライターの関係にちょっと似ている。

 

同じ「書く」仕事だが、作家は独自性がつよく求められるのに対して、ライターはわかりやすく正確に伝えることが求められる。「私は」とか書いたりすると、必ず編集者から削られる。「私」をなくして成立させる文章を書くのが、ライターの特質となる。

アクターは、ライターに比べてさらに「個性」や「自意識」の部分で大変だろうと思う。自分を出してナンボの稼業、「「個性」を消す方向で演技をするとなると、矛盾が生じるわけだど、そのねじれが古賀さんには適していたというのが、インタビューしていて面白い発見だった。

よかったら読んでください↓

顔は出ない。だけど、だれもがよく知るひとたちにインタビュー!!|メガヒット「モンスターハンター」「鉄拳」の影の主役──古賀亘①|朝山実|顔のでないヒーロー「なかのひと」|cakes(ケイクス)  https://cakes.mu/s/uyn6w

 

しかし「個性」というは、なんだろう?

東京大学教養学部×博報堂ブランドデザイン『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』(アスキー新書)を読んでみた。

物理学や、哲学を研究しているひと、天文学のひととか、多方面のひとたちが自分の専門にひきつけて「個性」について語っているアンソロジーだ。

たとえば「文献学」が専門の東京大学准教授の高橋英海さんは、イコン(キリストや天使を描いた、教会とかにかけられている絵)は、写し絵のようにして描くものなのに、描くひとによって個性がでるという。

 

〈この事実は、個性というものが、内容や様式に宿っているものではないことを教えてくれています。現代風にいえば、個性とは、俗にいう自分流のことではない、ということでしょうか。〉

 

真似てみせるのに、ちがいが生じる。手作りのお土産品の安いものに、それぞれ顔の表情の異なるものがある。そういうのが好きで、ちょくちょく買ったりするのだけど、ひとつとして同じものがない。同じものをつくろうとしても、そうならない。それって「個性」だと思う。

 

古賀さんもまた、仕事について語っているときに符号するようなことを語っていた。

個性をだしてはならず、個性を消しているにもかかわらず、出来上がった作品を見たひとが「動き」のもとになったのは、あのアクターでしょうと言い当てる、見るひとが見たらわかるものだという。

そこが面白い。

「個性」をつくろうとしたら、案外埋没してしまい、消そうとした末に出てくるのが、個性の正体、特性かもしれない。

 

あと、ある演劇のワークショップで「困ったときの対処の仕方に個性が出る」というのを昔耳にして以来、けっこう記憶に残っている。謝るにしても、逃げるにしても、始末のつけ方、対処に個性があらわれるという。型どおりの謝罪では、火に油を注ぐ結果になりかねず、必然的にオリジナルな解決法を探すことになる。その過程、ものの考え方に個性があらわれるという趣旨だった。

たとえば、間違いを指摘されて、当事者の間では嘘とわかることをシレッと口にして、あったことをなかったことのようにし平然としていられるひとがいる。普段以上に、逃げ口上の一言一句にそのひとがあらわれるもので、ふと何かの際に、あのときこう言ったよねと、そのひとの顔を思い浮かべたりするので、それこそが個性といっていいのだろう。

 

主夫になろうよ!

主夫になろうよ!

 

 

 

 

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/