「わたし、役者じゃないんです」というスタントマンと、「揺れを感じさないのも仕事」と語る霊柩車の運転手さん。
撮影©山本倫子
日刊SPA!に、「なかのひと」シリーズの続編インタビューが掲載されました。今回は、女性スタントマンの日野さんと、スタント出身のアクション監督の大内貴仁さん。
日野由佳さんは、優秀なスタントマンに贈られる賞を二度受賞してきた業界を多性評する存在。インタビューの際に、「名刺がないんです。すみません」といわれ、
「女優さんですものね」と返すと、「ちがいます、わたし、女優じゃありません」とソッコーで否定された。演じるひと=キャスト、というふうに、そのときまでワタシはスタントマンも「役者」に入ると考えていた。
のちに彼女が練習している場所に出かけていったときに、仲間のひとに、
「日野さんに、役者とか女優とか言ったらダメなんです」と軽くツッコミをいれ笑われた。スタントマンはエンディングロールを見ていると、キャストではなく、照明、美術などのスタッフの一群のなかに登場する。
役者さんでもおかしくないと思ったが、彼女には「女優になりたい」という意志はないらしい。とりわけ「美人」といわれたりすると、リアクションに困ってしまう。「スタントマン」という職業は、いろいろなりたいものを探した末に見つけたもので、それもけっこう遠回りして年齢的にもかなり遅い決断で、志願したときにも最初は「無理やろ」といわれたりもしたという。
だから、役者が上で、スタントマンは下というような捉え方もない。すくなとも彼女の職業意識としては。
ちょっと話は逸れるけど、父親の葬儀のときにお世話になった霊柩車の運転手さんから電話があった。「お元気ですか、どうしてます?」
霊柩車の助手席に乗ったあの日は、生まれて初めての体験というのと、葬儀にいたるまでいろいろすったもんだがあったもので、気持ちが躁状態だったのだろう。楽天イーグルスの嶋捕手に面立ちの似た彼に、ワタシは骨壺を膝に載せ、仕事のことをいろいろインタビューしていた。走行中、まったく揺れを感じさせない運転テクニックに感心してしまったのが発端だった。
霊柩車は購入方法まで聞いていた。おかげで、かなしいはずなのに、火葬場に向かうまでの一時間ほどを、たのしい時間として記憶している。
以来、何度か帰郷の際に会ってしゃべるようになっていた。
父の葬儀は、戒名をワタシが自作したために檀家だったお寺のお坊さんと喧嘩状態に陥り、その後も相続できょうだいの仲たがいが起きるなど散々で、『父戒名をつけてみました』という本にもした。そのなかに嶋さんも登場する。
「こないだ読んだ本にね、霊柩車の運転手さんの話が載っていて、そうそうと思い浮かべたんですよ」
「ああそうですか」
「どういう話かというと、走行中にまったく揺れを感じさせない。霊柩車を運転するのは、そういう技術が必要だって」
「まあ、そうですね」
「あの日も、そうだったなぁと。そういうことを感じさないのは、じつは難しいことなんですよね」
「そうですね。いまだから言いますけどね。あのとき、横でいっぱい話しかけてこられたじゃないですか」
「ええ、聞きましたね」
「仕事で運転しているときは、いろいろ見ていないいけない。ものすごく神経を使うんですよ」
「でしょうね」
「もう何倍もね。揺れを感じさせないのもそうですけど、後ろのクルマとの距離とか。たぶんあの日は気づかれてなかったと思うんですが、何段階にもわけてギアの操作をするんですよ」
「気づいてませんね。ワタシ、クルマを運転しないから、そういうのわからなくて」
「あ、いいんです。それで、ふだん運転するのと気持ちも姿勢とかもぜんぜんちがうんです」
「そういえば別の日にマイカーに乗せてもらったとき、めちゃ肩が落ちてましたね」
「ははは、でしょう。だから、日に3件も重なったら、身体パンパンですから」
「でも、あのときは、そういう緊張をまったく感じさせなかったですね。だから、ついついインタビューみたいなことをしてしまっていて」
「いいんです、いいんです。そういうのボクも、はじめてのことですから」
「でも、感じさせないというのがプロフェッショナルということなんでしょうね」
と、ここでふたたび、スタントマンの日野由佳さんの話にもどります。
彼女の練習を見学しに行った日、体育館の隅に、折り畳みのパイプ椅子をもうひとりの女性とで、カメラマンのぶんとともに運んできて「どうぞ」といわれたのが印象に残っている。なんでもない、ささいなことだが、「ああ、そうか」とへんに納得してしまっていたのです。キャストでなく、スタッフにいるひとなんだなあと。
日野さんが「師匠」と呼ぶ、アクション監督の大内さんはスタントマンに必要なのは、技術と想像力とコミュニケーション能力をあげていた。女性の場合は現場に呼ばれる際にひとりであることが多く、対人関係の能力が問われるという。それがどういうことかという、詳しいことはまたの機会にするとして、裏方の気配りが自然と身についているのかもと思ったものだ。
練習も、想像していたものとはずいぶん違っていた。リーダーがやってきて始動となるのだが、「じゃ、はじめようか。マット出して」というくらいのことで、号令がかかるわけでもなく、儀式的なことはなにひとつなく、十四、五人のひとたちがそれぞれ分散して練習をしていて、一見バラバラにもみえるのだが、これはというときには動きを止め、みんなが中心に注目していて、こういう「統率」もあるのかと関心したし、壁を蹴って宙を飛ぶ練習や、ジャンプしての蹴りの対戦形式のトレーニングなど、見ていて面白いものだった。
それでいて、ものすごい地味に練習を重ねるものだなぁと思った。
逆にいうと、地味な練習のことなど想像させたりもしないのがプロフェッショナルなのだろう。
「スタントマン」は、いうなれば役者の影武者にあたる。いるのに、画面に姿が映っているのに「いる」と思われたら失敗。存在しながら、気づかれない。
そこに仕事としてのやりがいがある。
ねじれているが、そのねじれをまったく感じさせないのが、面白いと思った。