背中を演じる人たちの漫画『UNDERGROUN‘DOGS アンダーグラウン・ドッグス』(黒丸)
【わにわに ウラカタ本】
『UNDERGROUN‘DOGS アンダーグラウン・ドッグス』黒丸(小学館ビッグコミックス)
スタントマンといえば、危険なシーンの代役をする。高いところから飛び降りるとか、クルマに撥ねあげられるとか。この前までワタシもそういう場面を頭に浮かべたものだった。
それはごく一部(もちろんそういうのを得意とする人もいる)で、アクションがあるところに彼らの存在は欠かせない。幅広いというか、仕事の奥行きが深いというのを知ったのは「ウラカタ伝」でアクション監督の大内貴仁さんを取材したからだ。
殴りあうシーンをいかにリアルに見せるか。本当にパンチがガツン!とヒットしては身がもたない。画面でそう見せるには、動きやカメラの撮り方、秘密の小道具もあって、あれやこれやをスタントマンたちは「自前」で準備しているという。話を聞きながら子供のころの〇〇ゴッコを思い出し、インタビュー中、ワタシはワクワクしていた。
そういえば、大内さんの前にもう一人、同じようにジャッキー・チェンに憧れアクションの世界を目指し、いまは「モーションキャプチャー」というゲーム・キャラクターの「動き」の原型を演じるのを専門にしている古賀亘さん(その世界のパイオニアにして映画『イン・ザ・ヒーロー』のモデル)をインタビューしたときもワクワクしたなぁ。
彼らに共通するのは、こんなにも自分の仕事を楽しげに、いきいきと語るひとたちがいるんだという驚きだった。ちょうど、そのときは個人的に精神的にどん底にあったときで、しばらくツライことを忘れさせてくれるインパクトがあった。
さて。『アンダーグラウン・ドッグス』は、その大内さんが代表を務めるアクションチーム「A-TRIBE」をはじめ、アクション監督やスタントマンたちを数多く取材しながら描かれている。
主人公の「サコ」は工場で働く、まだ十代の少年。高卒らしく、寮住まい。家庭の事情は詳細でないが、悩みを打ち明けられそうな友達はいなそう。おとなしい、というか、おとなしすぎて、根性の捻じ曲がったセンパイのパシリをさせられても断れない。将来の夢もない。ないない尽くしのような男の子だ。
そのサコが、ある日、工場の近くの埠頭で行われた映画の撮影を目撃し、魅せられることから物語は展開していく。
俳優になりたいとか映画監督になりたいというなら、ありがちなハナシだが、サコが衝撃を受け、見惚れるのは格闘シーンの代役をやっていたスタントマン。なかでも、ひとりの女性スタントマンだ。その日以来、少年は、あんなふうになりたいと思う。
そして彼の中で変化が起き、イジメに抗う意思をもつようになる。というあたりまでが、第2集までのスジダテだった。
読み方は偏っているかもしれないが、津村紀久子の小説に出てくる、不条理な境遇にアップアップしながらも生き抜こうとする子供たちを重ねたりしながら読んでいた。同時に『アンダーグラウン・ドッグス』は、スタントマンたちが実際どんなことをするのかを紹介していて、仕事漫画の色合いがある。そして、少年が「こんな自分をなんとかしたい」と思いスタントの世界に飛び込んでゆく、その切実さは津村紀久子の描く子供たちのリアルと通底している。
残念なことに第3集で一旦、物語は幕を閉じてしまう。雑誌の連載中に決まっていたらしい。コミックといえども昨今の出版事情の厳しさは変わらない。そうしたマイナス事情があったにもかかわらず、第3集の密度、テンションはアップしている。拍車がかかるというか、倍増している。アクションだけでなく、仕事論にもなっている。面白い‼
憧れていた女性スタントマンが事故で、サコたちの前から姿を消した3年後。新米スタントマンとなったサコは、アルバイトと掛け持ちで現場を重ねていた。
へぇー、というようなアクション映画の裏話やエピソードが盛り込まれ、新人らしくサコが悩んだり、壁にぶちあたって臆病になったり、仲間に励まされたり、といった青春ドラマの定番もあり、その成長する姿が描かれる。青春ドラマの王道がすべてぶち込んである。
だけど、王道から外れている部分もある。
たとえば、サコがスタントマンとなるきっかけを与えた「千鉄(ちかね)」が突然、期待の新人女優としてサコの前に現われる。そのときのサコたちの反応が面白い。
「スタントはもうやらないのか。もったいないなー」
というのが、共通した意見。彼らの感覚では、俳優>スタントマン、じゃない。
スタントマンの待遇は、決していいとはいえない。とくに日本の場合は。でも、仕事に対する彼らの自負がそういうつぶやきに出ていたりするのが、面白い。
彼らは、スタントマンのほうが断然やりがいがある。そこまでは口外しないまでも、サコも先輩たちもそういう気概を放っている。
スタントマンの中で、そういう思いを抱くものが多数なのか少数なのかはわからない。たとえ少数ではあっても、それくらい独自の価値観を確立している人たちがいる。劇中のその示唆は、梁山泊に集う猛者たちを想わせる。
なるほど、スタントマンのやりがいってこういうことなのか、というやりとりがある。サコが、ある映画の主演の吹き替えに抜擢される。ところが、主演俳優がサコの立ち回りを見て、懸念を表明する。「あんな弱々しいヤツに、俺の背中をやってもらいたくないね」と。サコのキャリア不足ゆえの不安。アクションを無難にやりとげようとするからか、サコの自信のなさがそっくりそのまま背中に出てしまっている。
これだったら、自分がやったほうがいい。こんなんじゃマイナスイメージだと主演俳優はスタッフに苦言する。
追い込まれたサコはどうするのか……。
ここでのやりとり。裏返せば、完成した作品の中で、スタントマンの顔は映らない。でも、背中は残る。そのための吹き替えだ。
「ボク、高倉健さんの背中をやったことがあるんですよ」
ワタシが取材で出会った、あるスタントマンが話していたのがいまの印象に残っている。その意味が当時はよくは掴めていなかったが、そうか、スタントマンのやりがいってこういうことなんだなという核心みたいなものがこの漫画の中には凝縮されている。
そうなんだよな。この漫画のこの巻を読むまで、誤解していた。スタントマン=かっこいいアクションを演じる人たち。だけでは、ない。ということをラスト間近のエピソードから教わった。
「背中」を演じるというのは、台詞は発せずとも役者同様に、その人物を演じきらなきゃいけない。人物になりきってこその身体アクション。「吹き替え」は表の俳優と一心同体にならなきゃいけないんだ、ということ。逆視点で見るなら、「演じる」って、そもそもどういうことなんだろうと考えていくハナシが展開される。
説明すると理屈っぽくなるけど、あくまでドラマの流れの中のエピソードとして。
商業的な意味合いでヒットにいたらなかったのは残念だが、それはこの作品が時代の一歩、いや半歩くらい先を歩んでしまっているからかもしれない。アクションの本場の香港やハリウッドでは、日本では考えられないくらいスタントマンの地位は高いという。現場にスタントマンがいながら「ノースタントで頑張りました」なんてブローモーションがなされる日本はアクションに関しては遅れているということになるのだろうが、こんなふうに「アツイやつら」が、彼らが注目を浴びる日はそんなに遠くないんじゃないか。そう思わせる熱情が、この漫画にはある。
出来れば続きを描きたいというコメントを作者の黒丸さんがされていたので、そのいつかがやってくるのを期待したい。