独身女が年収250万円で家を買うのは…池辺葵の『プリンセスメゾン』から
写真家のHさんから、家賃がいくらというのは外してくださいと言われ、まあ、そうかと思ってゲラから削った。
けっこういい暮らしをしているじゃないか。そう見られかねない。実際は、大黒柱である妻が体調を崩し、毎月の家賃の算段に頭を悩ましている。いつホームレスになるかしれない、と苦笑された。
実際、お宅を訪問して、リッパな住まいだなぁと思い、いつものクセで家賃を聞いたら、間を置かずに答えてもらったのだった。4LDKだったかな。間取りを考えたら、東京近郊で駅からの距離からして、お買い得。しかも成人した子供ふたりと4人暮らし。家具なんかも我が家のようにイイトシをして学生マンションみたいなとちがい、ちゃんとしたものだし、なにより初めて訪れたにしてはなんとも居心地がいい。
海外で写真展が開かれるなど、写真の世界では高名だけど、妻と結婚していなかったら、写真家であり続けられたかどうか。写真を撮ることができるのは、妻のおかげ。いい暮らしをしていると思われると困るんだよ、と苦るあたりはHさんらしいなぁとますます好きになった。
さて。池辺葵の『プリンセスメゾン』は、モデルルームを見学してまわる、独身女性の物語。高卒で働き出して8年になる、現在の年収は250万円ちょっと。居酒屋チェーンで働いている。求める物件は1LDKだが、ファミリータイプの物件もくまなく見てまわる。ボーイフレンドもなく結婚の予定もない。もし、そうなったらそうなったときに考えればよいというのが、その彼女「沼ちゃん」だ。
年収250万円だから、とあきらめない。削るべきところは削る。
たとえば、誘われても飲み会は断る。安易な妥協とかもしない。周囲からは「鉄の心の持ち主」とささやかれている。
ファミリー向けのモデルルームの見学会でも、家族やカップルばかりのなに、ひとりリュックを背負った、お下げ髪の沼ちゃんは幼く、浮き上がって見える。
その年収じゃムリでしょうと思えていたものが、読み進むうちに応援しているのは読者のワタシだけではない。常連になって顔を覚えられているマンションの販売会社の社員さん(イケメン)や、展示場の受付嬢たちからも、「沼ちゃん(本名は沼越)」と呼び、いろいろと後押しする。
いいのは、彼女の居酒屋での働きぶりである。
よく働くし、こまごまとしたところに気がつく。一見、幼く見える「沼ちゃん」だけど、意思はつよく、考えにもブレがない。
けっこう好きなシーンは、彼女が高層マンションの見学会から帰宅する。ワンルームのアパートの自室で、貯金通帳を眺める場面だ。
「残高を見るのが目下のシアワセ」と、デビューして間もないころのインタビューに答えていたのは、イッセー尾形さんだった。もう40年くらい昔かな。
週刊誌の記事を見たとき、いいひとだなあと思った。
しかし、その記事に事務所のマネージャーや演出家さんたちは激怒したという。
「私たちは何もお金が欲しくて芝居をやっているんじゃない。それなのに…」
記者におもねるようにして、そういう一言を口にしたイッセーは考えが足りないと叱ったのだと、事務所に出入りするようになって聞かされた。演劇を思想や運動としてとらえていた人たちだったから、その立腹もわからないではなかったが、預金通帳を眺めているイッセーさんの姿がワタシにはとても好ましいひとに思えた。そうではない、思想にもとづく受け答えをしれっとやれているイッセーさんだったら、ずっと好きになったりはしなかっただろう。
話をもどすと、『プリンスメゾン』を読んでいて意外だったのは、豪華マンションを案内する受付嬢たちがみなさん派遣で、キャリアのあるセンパイなんかも膝を抱えるバスタブの質素な部屋で暮らしている。
沼ちゃんを最初は下に見ていた彼女たちだが、このご時世にお金を貯めて家を買うというのは、他人事ではない。派遣の受付嬢の若い女性が、部屋を借りようとして、連帯保証人のほかに保証協会に入らないといけないと不動産屋に言われ、うちの親が年金だから、わたしが派遣だから下に見ているの?と激する場面がある。「いまはそれがふつうです」と返され、萎れてしまうのだが、そういえばワタシもつい先日そういう体験をした。なんだよ、そのフツーって。
家に関する豊富な知識やバイタリティのある沼ちゃんを、受付嬢たちは同士というか友達のような関係になっていく。のような、というのは、沼ちゃんのアパートに遊びに行くなどして親しくはなりつつも「お客様」という一線を守ろうとするからだ。独特なその距離感は、同じ池辺葵の『繕い裁つ人』に似ている。こういう距離感、ワタシはけっこう好きだ。
好きな場面といえば、沼ちゃんの暮らすアパート。
玄関を入ってすぐにシンクがある。
一口コンロやまな板一つしかおけない調理スペースを、彼女は炊飯器を床に置いたりして工夫している。
ワタシも、引っ越しの際、いちばんにチェックするのがキッチンで、つい彼女の自炊の手順をコマで追いかけながら、ノートの「キッチン希望仕様」に、
「★2口コンロ(以上)、★お湯の出る蛇口……」
と書き出しているのに見入ってしまった。
間取りを眺めるのは、そこに住むかどうか、住めるか否かをさておき、見ているだけで楽しいものだ。部屋ひとつで、ちがう人生が開けるかもしれない、なんてね。
そうそう。沼ちゃんが、どうして見かけによらず、しっかりものなのか(多くを望まず、自立志向なのか)を明かすシーンがちらっと描かれている。
そのあっさり感がかえって(ふいに空間を飛び越えた視覚的なアングルの切り替えが素晴らしい)情緒的でいい。それもこの漫画のよさだ。女学生服の沼ちゃんが雑巾で畳を拭いている背中(2巻48㌻)は何度読み返してもぐっとくる。多くを説明しないのもいい。