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朝山実が、読んだ本のことなど

「はじまりへの旅」に、『夜の谷を行く』を重ねてみた。

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 時間があいたので、マット・ロス監督の「はじまりへの旅」という映画を観た。予備知識なしだったけど、すんごく濃い映画だった。
 
 アメリカ北西部の森深くに暮らす、子沢山の一家の物語で、父親のベン(ヴィゴ・モーテンセン)は、1960年代末から70年代はじめの頃には世界中によくいた"怒れる若者"のひとりだったのだろう。いまでもバリバリ、資本主義の世の中は間違っているという考えを深めこそすれ信念はゆるぎない。適度に文明の利器をとりいれながら自給自足の自然生活を営み、他者との交流を極力避けている。

 父親の方針で、子供たちは全員、学校にも行っていない。ランボーをおもわす髭面のベンだが、かなりのインテリで、学校で習うことよりも多くのことを子供たちに授けることができると思い込んでいる。
 
 ある日、一家はやむをえない事情から、ベンの運転するおんぼろのバスに乗って下界に下りる。ファミレスに食事を取ろうとしたときのこと。メニューを見ながら「コーラって?」と子供が問えば、ベンが「毒薬だ」と答える。

 子供たちは興味津々なのだが、結局、食べるものはないと店を出てしまう。
 
 ベンは頑固で、いたってマジな男だ。だからこそ社会とのズレ具合が笑えるのだけど、わからずやの男をバカにしたパロディ映画なのかというとそうではない。
 
 よくいる「元左翼のオッサン」と違い、ベンが偉いのは、あいかわらず信念を実践している人間であること。実地で野生の鹿の狩り方を子供たちに教え、難しい哲学書や文学書を子供に読ませ、どのように理解したのかを言わせる。

 ときに子供があらすじを話しはじめると、「キミがどう考えたのを話さなければ意味がない」と諭す。そうだよな。観客として、同意する。ベンは理想的なパパでもある。状況によっては。
 
 そうなのだ。環境や見るものの視点によって、がらりと印象が変わるというか。「自分の意見」をもて、というベンの教育実践は、真っ白な子供たちに自身の価値観を刷り込もうとしているんじゃないかという印象がなくもない。すくなとも監督は、主人公のベンが考える「信念」とは距離をおいて描こうとしている。

 しかしながら、一見極端ながらも成果は出ていた。ベンの教育方針のおかげで子供たちは、同世代の子供たちと比べると、知識においても、生活能力においても、彼らは何倍も優秀で、とくに長男のボゥドヴァンは、まったく学校に行っていないのにハーバードをはじめ有名大学を受験し、そのすべてから合格通知をもらっていた。これがまた、のちのち父親の逆鱗に触れるのだけど。

「おまえは、なんでこそこそ隠れて受験したりしたんだ。ずっと俺たちに嘘をついていたんだな」

 父親が言う「俺たち」とは、死んだ妻を含んでいる。しかし、長男の受験を応援していたのは、その妻だった。

 ベンの妻は資産家のひとり娘で、彼と結婚するまでは弁護士として働いていた。森で生活する中で彼女は心の病をかかえていったらしい。というのも、彼女が生きた姿で語るシーンが映画の中にはないからだ。だから、彼女が実際、何を考えていたのかは、登場人物たちの証言によるしかない。


 ただ、彼女が生前にベンに残した紙には、自分は仏教者に改心したから火葬にして、骨はトイレで流してほしい。そんなことを書いていた。ベンが子供たちとともに、この遺言を実行しようとするくだりはスリリングで、アメリカ映画らしいアクションのある見せ場でもある。

 ベンとの対比で、この映画で重要な役を占めるのは、妻の父親である。熱心なキリスト教信者である義父は、娘の死はベンが原因だと立腹している。電話でベンが葬儀に参列したいというと、「来なくていい、来たら警察を呼ぶぞ」と脅すのだ。
 
 なぜ、義父はそこまでベンに怒りを向けるのか? 

 ベンが義父と対面するまでは、トランプみたいな男をイメージしていた。実際、ベンは、子供たちと教会に踏み込み、葬儀を中断させ、いっとき教会は騒動となる。
 
 教会の葬儀に集まった人たち、大多数の世間からすると、ベンの一家は非常識きわまりない「おかしな一家」である。しかし、クレージーとは突き放せないものがベンたちにはある。ベンのラディカルな「信念」や「正義」そのものは、過剰ではあれ、決して誤りだともいえないものだからだ。

 映画を観ながら、「父親の教育になんら疑問を抱くことのない子供たち」の姿から思い浮かんだのは、45年昔、厳冬の山岳ベースに集まった若者たちのことだ。最近読んだからということもあるが、桐野夏生の『夜の谷を行く』が重なった。「連合赤軍事件」に関わった元受刑者の女性の「その後」を描いた長編小説だ。


 1972年の軽井沢あさま山荘の銃撃戦後に、14人の「同志」を殺害していたことが発覚した「連合赤軍事件」。桐野夏生が小説の中でテーマのひとつとしたのは、当時、山に入った女性たちの中に、看護学生や保育士が多かったこと。なぜ、妊婦までもが「軍事訓練」を目的としていたキャンプに混じっていたのか。

 背後には、忘れ去られた「ある計画」があったとの、桐野さんが取材した関係者からの証言が発端になっている。

 連合赤軍は、武装闘争を掲げて超過激化した赤軍派と革命左派の二つの新左翼セクトが警察に追い詰められる中で合体し、長野から群馬にかけた山の中に拠点を置こうとした。強奪した銃を用い「共同軍事訓練」を行うなどしていたことから、山に入った若者たち全員が、当然のごとく「兵士」となる意思をもって参加していた。そう考えられてきたが、実はそうではなかったというのだ。

 少なくとも女性メンバーが数多かった革命左派には、「山で子供を生み育てる」という別の計画があった。だから、妊婦や赤ん坊を抱えた夫婦が参加し、次々と「総括」という名のリンチによって、命を奪われた。「おまえの、その態度は兵士にふさわしくない。ソウカツしろ」という理不尽な指弾を受けて。
 
 ほんのすこしでも冷静な視点に立つことができたら、妊婦に「兵士の覚悟」を問うなんて、なんてバカバカしい。「やってられねぇよ」と口々に言い返せていたなら、あんなにも凄惨なことにはならなかったにちがいない。もちろん、山の閉鎖された独特な環境では、それは無理な話だったのだろうけど。

 伝え聞く彼らの軍事訓練の実態。あまりの稚拙さ観念先行のそれと比べると、映画の中で、ベンが子供たちに施す「サバイバル教育」は段違いに本格的だ。ランボーなみに、たったひとりで生きるための術を体得させるべく、非情ながら理路に合致している。それひとつとってしても、総括を連呼した指導者たちが、いかに頭でっかちの人間だったかがわかる。行き当たりバッタリの行動であったかも。

 話を戻す。ベンの妻は、森で子育てをするうち、社会を遮断した生活に疑問を持ち始めていた。「森を出て、外の世界を知りたい」と相談した長男の希望を応援しようとしていたらしい。

 長男のボゥドヴァンは頭脳も優秀な上に、身体能力も高く、スポーツをさせたら、どんな競技でもトップクラスに入るにちがいない。おまけにイケメンだ。

 町に下りていったとき、女子が彼にちょっかいをかけてくる。が、ボゥドヴァンの気持ちがたかぶったとき、女子たちは興ざめし、冷ややかに彼から離れていく。話題はまるで通じないし、キスした直後に「結婚」を切り出されたら、そりゃ色気プンプンの女子は戸惑うわな。そもそも、女子の目をまともに見ることすらできないウブというか免疫がないのだ。

 そうそう、ベン一家が下界へ降りるのは、都会で療養中だった妻が自殺したという知らせを受け、葬儀に参加するためだった。義父から「葬儀の場に現れたら警察を呼ぶ」とまで突き放されるベンに同情し、そこまで言うなんてひどいなぁと思ったが、妻の両親が登場してからは、その印象も変わっていく。

 義父はマッチョながらも理性的で、ベンのようには感情的に行動を起こしたりはしない。この両親に育てられたからこそ、妻は理知的にベンを理解しようとしていったのだろうと納得もできた。

 資本主義社会のシステムに懐疑的で、森の中で、一家だけで暮らす子供たちの将来を考えた場合、本当にこのままでいいのだろうか。迷いを抱いた妻が、夫に話しても、ベンはまったく耳を傾けようとしなかったのだろう。
 
 森の中で、妻が相談する相手もなく悩みを深めていったらしい事情が、下界に降りたベンが「社会」とぶつかりあうごとに、また子供たちが示す態度などから徐々に見えてくる。そうした問題点が浮き彫りになっていく展開は、難題を抱えた家族もの映画としても秀逸だ。
 
 いったん思想そのもの善悪の問題をヌキにしてしまうと、ベンの独特なスパルタ教育は、子供たちをボクシングのチャンピオンに育てあげたナニワのヤンキーなオトッツアンに似ている。

 映画のラストは、こういうエンディングしかないわな、というものだ。と、ともにいささか平凡で肩透かしなものに思われた。じゃ、どういう着地があるのかと問われたら答えようがないのだが。同時に、あの山で、もしもオシメがひらめくような生活が展開していったなら、「その後」がどうなっていたのだろうかと考えもした。

 

夜の谷を行く

夜の谷を行く

 

 

 

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/