わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

ノワールはこうでなきゃな。

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『嘘 Love Lies』村山由佳(新潮社)は、第六章がすごい。

「作家生活25年、新たな到達点となる哀切のノワール」とオビに謳った、村山由佳の長編小説。500頁超えだ。

 25年かぁ、と購入。分厚いのは苦手なんだけど。1993年に『天使の卵 エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞したときにインタビューしたのをよく覚えている。
 いまはなき「週刊宝石」に本のレストランという読書欄があり(お色グラビアが売りなのに読書頁が充実していた)、ワタシがそのフロント頁「書斎拝見」のライターを請け負って間もないころで、もともと本を読んだりしない人間だったので、行き掛かりで始めたものの毎週カメラマンと作家さんの仕事場を訪問しては作家さんをインタビューする仕事にアップアップしていた。
 村山さんは当時、授賞を機に千葉の鴨川に転居する準備をしていた。電車を乗り継いで訪れた、房総の高台。まだ建設途中のログハウスはがらんとしていた。


「どうするんですか?」屈強なカメラマンが、低い声で聞いてくる。「書斎拝見」になんないでしょう?という。
 何もない、とは聞いていたけど、引越しのダンボールとかもない。ホントに何もないね。困ったね……。
 チッ。
 背後で、かすかな舌打ち。すいません。と言っちゃうと、なめられそうなので、
「まあまあ。ここはコバヤシさんの腕で」と相方を持ち上げる。
「ゼロはゼロ。どうにもなりませんよ」
 明らかに不機嫌だわ。
 黒いボディのカメラ。戦場ジープのように黒光りし、ところどころにぶつけたキズがある。これでブン殴られたら、イタイだろうな。ていうより死ぬな。
 リビングとなる予定のぐるりと見渡し、カメラマンが笑みを。「じゃ、ムラヤマさん。ここで寝そべっていただけますか。小説の構想をしている、ふうな感じでお願いします」
 新人作家さんに対しての口調はいたって穏やかながら、相方の有無を言わせぬ圧しだ。


 ごろん。「こんな感じですか」とまだ新人だったころの村山さん。当時の記事のストックを掘り返したら誌面が見つかった。
 床暖房のCMみたいにして寝っころがっている。笑っている。少々困ったふうにも見える。たしか、背後に当時のダンナさんが心配げに立っておられたはずだ。その作家さんが後に直木賞を受賞するとは思いもしなかった。その欄で新人作家さんを取材するのは異例で、たぶん新人だと読むのは一冊ですむよねというふとめばえたサボリ心がそうさせたんじゃなかったか。本は眺めるのは好きだが読むのは苦手。いまもだけど。ゼッタイこの作家さんは化けますよ、予感がとかなんとか上のひとにフイた気がする。

 その房総半島を出て、二度の離婚を経験され、人生いろいろあって、いまは軽井沢で猫と幼なじみと事実婚暮らしをされているそうだけど、不思議に思うのは予感どおりに賞をあれこれ取ってもインタビューとかで会う度、ごろん、としていた当時の物腰と変わらないこと。記事の写真を見て、さすがにもういまだとこれはお願いできないだろうけど。

 当時年かさだけはベテラン記者のイキながら実は転職したてのチビでオドオドしているワタシと、パリッとした黒のスーツでカメラが凶器に映るくらいデカイガタイのカメラマン。凸凹コンビで、書斎に入る際には、取材相手の作家さんが怪訝な顔になる。見えんわな、ふたりともカメラマンにも記者にも。
 そのカメラマンと先日20年ぶりくらいに銀座でバッタリ会った。いまは宝石を扱っているとかで、前にも増して高級なスーツに身を包んでいた。
「まだ、こっちのほう、やってんですか?」と筆をもつ仕草をされたので、「ほかにないからね」と答えたけど。にやにや笑い返された。

 

 さて。『嘘 Love Lies』だ。
 男女二人ずつ、中学生四人の甘苦い青春物語と、まったく不釣合いなヤクザものが絡みノワールが混合した長編小説で、それぞれの少年少女たちと親との関係、葛藤が丁寧に描きこまれているあたりは『放蕩記』を頂点とする母娘ものの系譜を汲んでいる。
 複雑に入り組んだラブロマンスの山あたり谷ありということではデビュー以来の得意ジャンルで、さすが25年、熟練の域に達している。しかも、物語の人物相互の関係も、それぞれが背負っているものも、当初はよくわからない。
 だんだんと話が見えてくるあたりは、喫茶店で偶然隣り合わせた、ひそひそ話の密談を耳にするような刺激がある。小出しのこのあたりは絶妙。25年だわ。
 さらに冒頭かなりエグイ、ノワールな場面から入り、そこから一転情景を転じてしまうあたり。まるで物語の全容が掴めない。だからドキドキさせられる。
 中盤までは、そうしたドラマつなぎの技巧の妙味に目を奪われながらも「うまい」というのが正直な感想で、ノワール感覚はそれほどでもなく、「新たな到達点」と謳う斬新なものを感じるところまでにはいたらなかった。


 主人公である四人の少年少女の中学時代と、30代となった彼らのその後。場面と時代を切り替えながら、それぞれの視点で描かれる。
 外見とのギャップのある「内心」を伝えるということでは、村山作品らしい緻密さだ。『嘘』に唯一、村山由佳として読んだときに違和感があるといえばノワールタッチだが、四人が共有することになる「二つの事件」の描写について、とりわけすべての発端となる少女に関わる事件については最小限度の描写にとどめ(必要ではあるが、正直トシをくってくるとこの類いのシーンはもう読むのがツライ)、反面第二の事件については事細かに描いている。いずれも「暴力」にかかわるものだが、書くのと書かない。その配分が作家の性分をあらわしている。

 

 印象が激変したのは、終盤に近い「第六章」だ。ヤクザの世界に十代から身を投じてきた近藤宏美。四人の物語として捉えた場合、近藤は脇筋なのだが、物語の中では四人同様に「内心」が語られはじめる。控えめながらもキーパーソンであることは間違いない。
 女のような名前をもつキレキレの男で、若い頃から心酔し絶対服従をちかってきた親分を近藤は、残り頁も少ない章で裏切ろうとする。親分はそんな近藤の腹の中はとうにお見通しで、しかし、それを微塵も顔に出さない。声を荒げない。正体をつかませない。モンスターのような九十九誠と、九十九を慕いロボットのようにつかえてきた近藤の「暴力」を媒介にした信頼と離反、男の嫉妬と愛憎がからんだ関係はノワールそのものだ。しかも、互いに背信という「嘘」を胸にひめている。


 この小説の中で際立っているのは、丁寧にこまかやに主要人物たちの心の動きがつまびらかにされるなかで、ただひとり九十九誠という、物語世界全体をコントロールをしているヤクザ者のことが何ひとつ明かされていないことだ。勘が鋭く、判断力も高い。情も、物分かりもいい。当初はそう疑わせない。ある意味、ビジネスマンとして見た場合、理想の上司にも思える。それでいてキーパーソンなのに「自分」語りもしない。九十九という男を理解する手がかりは、腹心の近藤か四人の視点からの観察のみ。巧みに誰にも心を見せずにひとを欺いて生きてきたということでは、最大の「嘘」の主は、この九十九誠なのかもしれない。内面が描かれていないからこそ、九十九を読者として知りたくなる。
 いっぽう、そんな得体の知れない九十九に心酔しながらも、土壇場で態度を翻してしまう近藤にも魅力を感じる。つよく。中盤から近藤にスポットが当てられるにつれ、近藤のことが気にかかってしかたない。九十九と同類の「悪」なのだが、悪に徹しきれない甘さが近藤からはにじみ出ている。
 役者でいうなら、三浦誠己が適役。あるいは若かりし、根津甚八。読み進むうち何度も石井隆監督「ヌードの夜」の余貴美子と根津さんの絡みが思い出された。ベッドの枕もとに余演じる「名美」が凶器を隠し、根津演じる「村木」をねらう。殺すことでしか縁を切れない女と男。どうにもならない。ぐだぐだの男女の腐れ縁といえばそれまでなのだが、そこに奇妙な狂愛を感じる。和製ノワールの名作映画で、根津を兄貴と慕うホモセクシュアルな鉄砲玉を、当時は無名の椎名桔平がキレキレに快演していた。

 

「第六章」に話をもどす。全体の一割にも満たない30頁のこの章が突出しているのは、近藤が絶対服従の親である九十九への背信をはたらく「嘘」と、近藤の意図を見破りながら平然と乗っかってみせる九十九の「嘘」。さらには、物語の中で最重要のキーパーソンである刀根秀俊が脂汗をかきながらの「嘘」、それら一切合財の「嘘」を飲み込んで大団円を演じるろくでなしのヤクザ佐々木。この佐々木の「嘘」がまた見事で。いくつもの「嘘」が混合しぶつかり合う緊迫したシーンのノワール感がハンパではない。

 名前を伏せた上で、この場面を誰が書いたかを問うたとしたら、村山由佳の名前はまず出てこないだろう。では誰がこの場面を書けるのか。何人かの作家の顔は浮かぶものの、ちがう。考えも及ばないというのではない。ノワールを売りにした映像作品や小説に類似のものはあるかもしれない。それでも、近藤と九十九、佐々木と刀根。刀根と近藤。主観視点が激しくスイッチングされるたび、それぞれの張り詰めた顔が浮かんでくる。
 とくに佐々木は、冒頭から愚昧で変態のロートルヤクザの印象だった。それが一場面、ほんの一瞬で物語のカタルシスをいっぺんにかっさらい疾走していく。完全な脇役でしかなかったのが、賭場の掛け金を総ざらいして猛ダッシュで立ち去る感じというか。刀根も近藤も、重厚な九十九さえもがぶっ飛んでしまう。お見事というしかない。


 もうひとつだけ。いくぶん蛇足だが、九十九誠というヤクザ。濃厚なキャラクターながら、ただひとり「自分語り」をしない。これは特筆にあたいする。愛してしまうと感情のコントロールがきかず、愛を注ぐほど、たとえば愛玩動物の首をひねりつぶすように破壊し尽くしてしまう。過剰なる「欠損」を抱えた男といえば思い浮かぶのが『笑う山崎』だ。しかし、それとも異なる。何がどうという説明はし難いのだが。苦味に混じる濃厚な甘美というのかな。村山由佳が今後もノワール作品を書き続けるのならば、近藤と九十九が出会うまでの前史の物語を読みたいものだ。是非。

 

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/