宮崎誉子の『水田マリのわだかまり』は、『OUT』『照柿』に連なる、工場モノの傑作だ。
工場もの小説といえば、『OUT』(桐野夏生)と、『照柿』(高村薫)がワタシの中での横綱だ。そこに新たに加えたくなるのが、宮崎誉子の『水田マリのわだかまり』(新潮社)だ。5年半ぶりの新刊で、宮崎さんは「平成のプロレタリア作家」と呼ばれている。
井上光晴や『蟹工船』を思い浮かべそうになるが、表題作は正社員とパートと派遣が混合する、まわりは年上女子ばかりの洗剤工場(商品ごとにレーン作業がある大きな職場)で働く、16歳「水田マリ」の物語。
会話のやりとりが軽妙で、シンコクな話なのに、読みやすい。
母親は宗教にハマリ、学資保険を解約してお布施に注ぎ込む、父親は若い女と駆け落ちし、マリは入学したばかりの高校を3日で辞めている。
不憫に思った母方の祖父母の世話になりながら、祖父が昔工場長をしていた工場で働くことに。だからといって、悲劇のヒロイン語りをするわけでもない。
現実を受けいれながらもジメジメしておらず、というあたりは「じゃりン子チエ」っぼくもある。こういう小説がワタシは好きだ。
リアルといえば、工場内の休憩室での場面。マリが空いているテーブル席に座っていたら、知らない正社員の女性から「ここ座ってもいいですか」と声をかけられる。
嫌な予感がし「どうぞどうぞ」と席を立つ。背後から、
「チッ。マジ誰? なんでうちらの席に座ってんの」と仲間に話しかける声が聞こえる。
マリは「地獄耳」で、ヒソヒソ話と下品な笑い声はしっかり耳に入る体質で、無表情なままに部屋を出ていくのだけど。
以前、友人から「近くのスパに行きたいんだけど、常連さんたちの指定席が決まっていて、知らずに髪を洗っていたらオバサンから、きつい声で言われた」という話を聞いたことがある。風呂場や工場の休憩室に指定席って? でも、こういうのもマウンティングの一つなんだろうな。
イジメといえば「学校」の話とされがちだけど、会社や大人社会のいろんなところでコドモ以上に手の込んだことが行われているんだよなぁ、とこの小説を読みながら感じる。
そういう場面に直面するのは楽しい話ではない。気が滅入る嫌なことだが、「じゃりン子チエ」的なポップさが「いやーな感じ」を、鏡のように面白く映し出す効果をなしている。
さっきのヒソヒソ正社員なんか典型だけど、正社員と派遣とパートが混在しながらも、ひと目で三者が色分けできる様子など「平成のプロレタリア作家」といわれる所以だわ、と納得する。
ホッとしたり、ハラハラしたりするのは「ニコルさん」というフィリピンから来た同僚女性が、ライン作業でマリにきつくあたるオバさんを目にし、
「オネーサン、コワーイ、タノシクヤロ。タノシクネ」と割り込み、トゲトゲした空気をやわらげる。オバサンたちにしたら、16歳の少女は若いというだけで「外敵」なのだ。
このニコルさん。仕事はテキパキしていて、上手にサボるのだ。ゴミ捨てを言いつけられた ときにも、
「ヤスメルウチヤスム。アトガモタナイヨ」と、堂々とフォークリフトの人専用の休憩室に入っていく。
マリが「ニコルさん、フィリピンの人達って仲良しでいいですよね」うらやましげに言うと、
「ニホンジン、イジメトカゲグチ、ダイスキ。ソレ、トテモヨクナイヨ。ワタシタチ、ヒトリヒトリ、シタガウデキル」。
自分たちは、言われた指示には従う。だけど、仲間の誰かがイジメられでもしたら、全員で抵抗する。フィリピン人というだけで彼女たちは工場の最底辺に位置づけらるながら、おおらかだし、勇敢だ。
仲間をいじめた相手の指示にはぜったい従わないのだという。無言のストライキをするということだ。
「ワタシタチ、ナカマナメラレタラ、ミンナデヤリカエスネ」
「なんか、カッコイイですね」とマリ。
ニホンジンが好んで用いるコトバに「和」というのがある。集団のまとまりを保つという抑制的な意味で使われることが多いが、フィリピンの彼女たちは別な意味での「和」を実践していて、ニコルさんかでてくるシーンは何度も読み返した。
さらに物語として『水田マリのわだかまり』がすごいのは、マリの中学時代にイジメ自殺があり、加害者グループのリーダーだった「リカ」という同級生の母親が同じ工場に勤務していて、その母親からマリはリカの誕生会に招かれる。マリは、リカとはろくに話したこともないにもかかわらず。
事件後に、リカのまわりにいた人間がいなくなり、逆にイジメグループのパシリに転落したそうだ。
さらに驚くことにリカの母親は、自殺した少女の姉も招待しているという。
「山下さん」というそのお姉さんは保険の外交員で、勧誘先の工場に通っている。リカは妹を自殺に追い込んだ存在で、この母親の頭の中がまったく理解できない。誘うにしても、ふつう躊躇するだろうに、そうした迷いがうかがえない。頭の回路が異様なのだ。
まったく理解できないが、同時にいるいる、こういうひとと思ってしまう。
マリも山下さんも、彼女の真意がつかめずにいて……という話の転がり方の馬力がすごいし、結局、ふたりは誕生会に行くのだけれど、まったく予想外の展開をみせる。これがまたほんとうに、すごい!!
これはホンスジから逸れるやりとりだけど、マリと祖母の会話でインパクトがあるのは、家事を手伝うマリに、祖母が、「また自殺した同級生を思い出しているんだね」と訊ねる場面だ(p.40)。
祖母は、自殺なんかしちゃいけないよ、と言い聞かせるかわりに、
「じゃあ今、スマホで検索してごらん。葬儀費用で、急いで」と急かす。
そして画面に表示された、葬儀プランの価格を読みあげさせる。
「マリちゃん、どう? 死ぬ気も失せるでしょ」
祖母は、マリが人に迷惑をかけるのは嫌だという心理を読み込んだ上で、電車に飛び込みでもしたら損害賠償請求なんかされて、この家を売らなきゃなくなるし、家で首を吊ったら事故物件になる。孫に、迷惑をかけて平気なら好きにしたらいいという。
突き放し方がすごいというか、おばあちゃん、めちゃくちゃドライだ。
でも、これくらいキツく言わないと伝わらないこともあると思った。
かと思えば、家出したままの父親から、
「いつかマリを帯広競馬場、門別競馬場、函館競馬場などなど連れていってあげたいです」
とまあマイウェイな手紙が届き、マリでなくとも????
ここまで家族がめちゃくちゃならば、もうクヨクヨなんかしていられない。まさに、じゃりン子チエ状況なのだ、水田マリが置かれている境遇は。
そうか、これは「自殺」を題材にしながら、生きろよ、なんでもいいから、どんなことをしてもでも生きろよ、というハナシなんだと思った。
とにかく、最後の展開が、同時収録されているもう一篇の「笑う門には老い来たる」にも通じるのだけど、呆気にとられる展開を見せながらのはエンディングは不思議な希望を感じることができた。
もうひとつの「笑う門には追い来たる」はさらにリアルだ。「介護」と「いじめ」を題材にしながら、新喜劇のような笑いを誘うやりとりが随所に盛り込まれている。
帰ろうと思えば帰れるが、帰省シーズンにしか実家に戻ることのなかった主人公が、両親のことが気になり、中学生の娘を連れて帰るという話だ。
70代の父はパーキンソン症候群に認知症が加わり「マダラボケ男」(母いわく)で、大量の飲み薬を服用。母親はC型肝炎。大変なんだけど、これが読むとオカシイ。
ものは見方ひとつで、シンコクに考え込めばどんどん深みにはまるものたが、この小説はスコンと突き抜けている。
父親のステテコに茶色い染みを見つけた笑子(主人公)が、消臭スプレーを吹きかける場面がある。
急いで手洗いしているところに娘がやってきて、
「おじいちゃんの下着、美幸が洗うよ」という。思わず、主人公ともども涙しそうになるいい場面である。
が、直後に美幸はこう付け加える。
「おじいちゃんのウンチでゲン担ぎしょうかなーって」
彼女は懸賞ハガキにハマっていて、ウンチで運を呼ぶというシャレらしい。
無邪気というか、美幸に悪気がないのはわかる。しかし、大量にハガキを出すのに、母親や祖母にも手伝わせる。
ハガキに一言添えるのが当選確率を倍増させるコツらしく、ディズニーランドのチケット狙いの懸賞ハガキのコメントの見本を伝えるのだが、
「おじいちゃんが完全にボケる前に、みんなでミッキーに会いたいです、と書いて」という。
孫娘の美幸に悪意はない。だから、なぜ主人公やおばあちゃんが、押し黙ったのかが、わからない。それでも、まずいことを言ったらしいと自覚はある。
こうした「あちゃ!!」が繰り返されてゆく。
さらにパーキンソン症候群の進行をたしかめるため、父親が病院で、体操のような動きをさせられる場面。主人公の笑子は、幼稚園のときに「きらきら星」を歌いながら踊ったのを思い出し、笑いそうになる。
この場面も書きようによっては、笑えはしない。幼いがゆえのザンコクさや、経験とともに得た楽観が、ごくごく自然に「家族」の結束とは何かを示していく。
老いていく父親は6歳児ではない。病気が治癒する未来はない。しかし、それがわかっていないながらも、目の前には無心に踊る父がいる。
『OUT』の弁当工場のパート主婦たちは凄惨な事件の共犯となり、『照柿』も犯罪捜査の話だった。宮崎誉子の工場小説はそっちに駆け出しそうで、そうはならない。そこがいい。
介護というのをあるがままに描いていて、これはもう笑うしかない、というか、笑うのがいちばんだと思わされる。