借金を頼むのはツラいが、断わるのも…
むかし代官山に書店を開いた、木戸幹夫さんのこと。
【わにわに書庫】
『別冊本の雑誌⑰本屋の雑誌』(本の雑誌編集部編・本の雑誌社)から、
東横線「代官山」駅すぐの「文鳥堂書店page1」の木戸幹夫さんのお家に一度だけ泊めてもらったことがある。まだ大阪でワタシは「プロローグ」という出版営業代行の会社にいたときだから、もう20年以上に遡る。
会社でフリーペーパーを作っていて(書店時代の先輩たちと作った会社ながら、本業の営業の仕事があわなくて、メディアっぽいコトをするほうに逃げていたんだといまにして思う)、それを置いてもらいに立ち寄ったりした流れで、飲みにいき、泊めてもらったように記憶しているが、曖昧だ。きれいな奥さんとまだ小さな子供がいて、挨拶したのを覚えている。
以前から木戸さんがときおり「本の雑誌」に書いていた文章が好きだった。早川義夫さんとかとやっていた本屋さんの新聞も好きだった。早川さんの『ぼくは本屋のおやじさん』は、書店勤めをしていたときに何回も読んだ。駄菓子屋さんみたいに猫が店先にいるような本屋は理想だった。
木戸さんは、トツトツとしゃべるひとで、吃音のきらいもあったけど、哀歓のある文章で、なるほどこういうひとがあの文章を書いているのかと親近感を抱いた。ただ、何を話したかは覚えていない。でも初対面に近いひとと飲んで、しかもそのひとの家に泊まるなんて当時も今もないことだから。
〈……奥さんの実家、文鳥堂書店、銀行、友人、知人、先輩後輩、飲み屋さんの顔見知り、中学の先生、生命保険の解約等、すべてを動員したらチョロイものに思えた。誰にいくら借りようかと金額を考えることはとても楽しい作業だった。一億円ぐらいはすぐに突破しちゃうんだよね〉木戸幹夫「書店開店ごたごた顛末記」より。
再録されているエッセイを読むと、独立開業を考えはじめた時期の木戸さんはいかにも楽天的だった。しかし、いきなり頼みにしていた国民金融公庫から融資を断られる。〈相談はほんの三分で終わった。〉という。
1986年のことだ。
ワタシが訪れたのは開店して一年目ぐらいだったと思うけど、目の前にあった駅の改札が工事で遠くにいって、とこぼしていた。デザインと絵本が売れるとか。当時はリブロポートの営業を請け負っていたので、美術関係の本の新刊チラシを渡した。ワイエスとかの。あ、書いていくうちにすこし記憶がよみがえる。
いまはもうそこにない書店の開店に向けたドタバタを読むのは不思議なものだ。開店資金が足りずにああだこうだしたり、内装工事の費用を抑えるためにどうだこうだしたり。お金をケチケチきりつめながらも、関わってくれたひとたちの労をねぎらために〈祝い事はお寿司屋なのだ〉とこだわり、トモダチプライスにしてもらう。そういう人徳というか、しょうがないなぁといわせるところのあるひとなのだ。そういえば、店の新聞に、いしいひさいちさんが四コマを描いていたりもした。豪華だった。
難題は山のようにあっても、だんだん片付き、さあ、いよいよ、というのは読んでいてすがすがしい。
いま、木戸さんはどうしているのだろうか。消息が1行でも書いてあるかなと思ったけれど、なかった。
あれは何時だったか。
まだワタシが江古田のアパートに住んでいたときだったから20年ほど前かな。電話がかかってきて、小田原にいるという。奥さんと別れて、いまひとりで、トツトツとしたしゃべりから、ひと恋しくしてかけてきたのはわかっていたはずなのに、すこしジャケンな応対をしてしまっていた。
いくらか貸してほしい。すこしの、沈黙。そんな一言が出掛かっていた。おそらく。間違いない。
余裕があったわけではないが、そう思ったのだから、こちらからこれだけなら用意できるよ、とワタシは言えばよかった。相槌を打つだけじゃなく。
逆に疎んじた声を出していた。
「ああ、長電話になっちゃった。忙しいよね、ごめん」
と言って電話はぷつんと切れた。
カンのいいひとだった。
あのころは自分のことしか考えてなかった。それだから別れた嫁サンともうまくいかなかった。また思い出してしまった。
書店に営業にでかける会社をやめ、いまの仕事に就いて20年になる。やめてからは、仕事で通っていた書店にピタッと足を向けなくなった。ワタシにはそういうところがあって、そういうふうにして関係をリセットしてきた。でも、あのひとは、と、ときどき顔を思い浮かべたりする。
木戸さんの原稿の最後には、こう書いてある。
〈五年後にはpage2をつくるんだ。場所も決まっているぞ。《いつも心に太陽を!》〉