わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

山頭火みたいに生きたかった小松さんのこと…。

   あの日の笑福亭小松さん

 

「調子のいいときは取材だなんだとぎょうさん人が集まってくるけれど、つまづくとあっという間に寄りつかなくなりますわ」

    小松さんのぼやきだ。マスコミの一端の仕事をしているとよく耳にすることである。メディアの仕事は「シュンの人」と持ち上げ、かげってくれば見向きもしない。そんなものに気持ちを煩わされていたらやっていけない。もっともだ。

    だからシュンの人を取材するときは、こちらも恥かしさがある。自分はシュンにしか群がらないアリの一匹にすぎないという。だから、シュンが過ぎてもつきあいを続けていければいいのだが、もとから人と関わるのが苦手な性分もあり、記事を書いたあとは「あんなにしつこくついてきたのに」とあきれられるくらい関係は間遠になってしまう。すくなとも、こちらから電話をすることはない。

    小松さんのことは、最後に電話を受けたのは彼が逮捕される一年か二年ほど前で、結局それが耳にした最後の声になる。「どうされています。元気にやっておられますか?」あいからずに元気のいい声だった。

   笑福亭小松さん、本名・夏川雁二郎の訃報をネットのニュースで一昨日、知った。2003年6月2日号の「AERA」を家捜しして、ようやく見つけだしたところだ。

「現代の肖像」頁で、小松さんの取材をしたのはその年の2月からだ。

   がんの手術後に日本列島を徒歩で縦断。「徹子の部屋」に出演したり、旅が本になったり、「がん克服体験」の講演会が人気を呼んでいた。ちょっとしたときの人だった。

    講演会は、落語家だけに話すのはお手の物。年配者のご婦人層を中心に全国どの会場も百人単位のひとが集まる盛況ぶりで、小松さんは自著を自腹で梅田の紀伊国屋書店でまとめ買い入いし、講演会場に運びサインしながら販売していた。どこも長蛇の列だった。

   あのときは正直、落語家というよりも「先生」っぽかった。意識してそういうスタイルを選んだのだろう。すこし背伸びをするというか。エエカッコをしてみていた。挨拶したときのしゃべり口調、ふるまい、身のこなしすべてにおいて。

「えっ、こんなひとやったっけ?」

 小松さんと知り合ったのは、その2年前に同じ「AERA」で、笑福亭松鶴門下の兄弟子、鶴瓶さんを取材していたときだった。たまたま鶴瓶さんが行うイベントの打ち上げの席で、場を盛り上げるようによくしゃべる愛嬌のいいひとがいた。「おまえなぁ」と笑いながら鶴瓶さんからよくダメを出されていた。

「こいつ、変わったやつやねん。俺なんかより、こいつを取材したほうが何倍もおもろいで」。

   言われながら、頭の後ろに手をあて、ニコッとしている。どんなに失敗をしてきたか、鶴瓶さんがおもしろおかしくネタにする。ちょっとおっちょこちょいなところに親しみをもち、いいなぁと思った。

 

「あいつとはもう縁切っているから。取材するんならしたらええけど、あんたも気ぃつけや」

 鶴瓶さんに、小松さんを取材することになった、と挨拶の電話を入れたときのことだ。弾んだ返答を期待していた。それだけに、ショックだった。

   手のかかるしょうがない弟と、こまらせられながら面倒見のいい兄。ふたりの関係はそう見えていたし、実際そういう蜜月の期間は長かった。何度も庇ってたあげくのこととはわかる。長いつきあいのぶんだけ、一度見切ると「関係ないから」というくらいその言葉は冷厳だった。

 できたら鶴瓶さんに何かしゃべってもらおうと思っていたが、けんもほろろだった。一年近く鶴瓶さんを取材していたときには一度も耳にしたことがない、ビシッとした一刀両断、それは厳しいもので、この厳しさがあるから彼は浮き沈みの激しい業界でずっとトップを張ってきたんだというのをあらためて、いまさらながらに理解した。

 取材も終盤というときに、鶴瓶さんとのやりとりを小松さんに伝えた。「いつまでもニイサンさん兄さんて、頭下げてられませんから」

    いくぶん口をとがらせながら、身体を強張らせているのがわかった。絶縁となる事情について、小松さんから、誤解があることや彼なりの言い分があることなども聞いた。

   とくべつなふたりにも見えたし、実際、小松さんは鶴瓶さんに甘えるというか、「愛されていたかった」ひとだったから、それだけにすねるというか反発する気持ちも強かったのだろう。

「もう、ぜんぜん連絡とってませんし、お互いイイトシした大人ですし、ええんですわ」

 いいながら自分に言い聞かせているふうでもあった。

   縁を断つ、断たれるからには相応のことがあったにしても、当時は鶴瓶さんをきっかけにして「このひと面白いなぁ、取材してみようか」そんなノリの小松さんの人選だったものだから、取材のスタートから梯子が消えた思いで、うろたえた。

   ただ、鶴瓶さんから後押しするような言葉をもらうことをあきらめたぶん、小松さんと密に向き合い、結果的にAERAの記事の中でも自分にとってとくに思いのこもったものになった。

   たぶん、こういうと誤解されそうだが、できたひとよりもダメなひとのほうにワタシの琴線はつよくひかれるのだろう。20年ちかくやってきた人物を書く仕事の中でも、知人や編集者から印象に残ったものとして小松さんの「現代の肖像」はのちのちまでも外れることはなかった。

   記事を十年ぶりくらいに読み返していて、こんな小松さんの台詞の部分に目がとまった。

「私が惹かれるのは、何度も反省するくせに同じことを繰り返す。また好きな酒と俳句だけはどんなことがあってもやめなかったところです」

 当時心酔し、会うたびに、話題にする。なりきろうとするかのように愛読していた山頭火について、どこがそんなに好きなのか。聞きただした際に返ってきたことばだ。まるきし、小松さんじゃないか。

   弱いところのいっぱいあるひとだが、やめなかったのは、小松さんの場合は落語。着物姿でイキに高座にあがることだ。

 刑務所を出てから、ファンにひとに支えられ、寄席に出ていたという。「元・笑福亭小松」というのが残念ではあるが、彼らしい。ネットの時代はありがたいもので、動画でその一部を見ることができた。

「ドッキョ」がどんなにツライか。大部屋で、イビキはともかく、先輩たちから寝言が嫌がれた。

「マサル、ごめんな」「マサルー、すまんかった!!」と大声で泣くから、一睡もできなかったとすごまれ「誰や、そのマサルって?」と問い詰められる。そんなハナシを、絶好調のときの松鶴師匠のネタのように手振り身振りで噺している。

   笑った。泣けた。

   勝は、彼が愛した息子で、借金をこさえるなどして家族に迷惑をおよぼしたあげく、その息子からも彼は縁切りされていたという。ネットに載っていたスポーツ新聞の記事によれば、晩年は関係が修復していたらしい。鶴瓶さんからも、亡くなる数日前に電話をもらったという。

(続く)

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/