わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

「お葬式」をもっと安くならんかと賢く値切るということについて、

 これは知り合いの葬儀屋さんから聞いた話。どっと疲れた。
 シマさんは、30万円以下の家族葬を中心にしている小さな会社に勤めている。どんどん価格を下げるように喪主さんに言われ、「もう町の葬儀屋さんはなくなっていきますよ」と暗い声をだしていた。駅前のシャッター通りを、ワタシは思い浮かべた。そういう時流なのかなぁと。
 葬儀屋さんがボッタクっているというのは昔の話で、いまはどこも採算ぎりぎりでやっているとか。自前の会館を持っている大手か、ネットでチェーン展開している新興しか数年後には残っていかないだろうという。
 就活ならぬ終活ブーム。お客さんのほとんどがお葬式を事前に考え、準備する時代。ネットでいろいろ下調べして、電話をしてくるひとが半分以上だとか。
 三年前に父が亡くなったときに病院の電話帳で調べたワタシなんかからしたら、「へぇー、そうなんだ」と軽い驚き。当時、『葬式は、要らない』という島田裕巳さんの本がベストセラーになっていた。高額のお葬式を見直そうという空気がいっきに高まった。が、ここまで加速していくとは……。
「そうなんですよ。いまはみんないろいろ調べていて、『オタクの骨壷なんで2千円もするの?  仕入れは安いんでしょう』といわれるんですよね」
 葬儀屋のシマさんの会社は関西にある。本音をぶつけるローカル色もあるのだろうが、ロコツにもっとまけなさいというやりとりがあり、それがキツイという。たとえば原価が数百円のものでも、いろいろ付加して2000円に決まっていく。人件費などをそこから捻出するわけだ。
 これまでは、その原価がわからなかったものだから、言われるままに払っていたが、消費者も賢くなって、いろいろ下調べなんかもして、数社から見積もりをとるなんて「いまはふつう」になった。葬儀の会館はどこがいいか、出される料理のメニューのチェックも怠りない。そうした相場を掴んだ上で、「おたくはいくらにまで下げられるの?」と訊かれるのだとか。
 消費者意識が広まったというか、賢くなったわけだ。その日になってあわてるなんていう、伊丹十三監督の『お葬式』なんていうのは過去のものになりつつあるらしい。
「でも、うちなんか相当安くしているのに、さらに安くできないのといわれるとねぇ」とシマさん。なかには電話で開口一番、「最低価格いくらでできる」と切りだされることも少なくないとか。
「そういうときは、もうお断りすることにしています。価格は充分に抑えているし、金額だけを最初にいわれる場合、あとあと釈然としないことが多いんですよね」
 価格にばかりに目がいって、なんのための葬儀なのか疑問に思うようなこがしばしばあるという。仕事だから、「いいお葬式だった」といわれるのがやりがいになっているが、近年どうも殺伐とした感覚が残ることが増えてきた。そういうときには、なんでこの仕事をやっているのだろうと思いもする。
 先日もこんなことがあった。最低設定が17万円なのだが、「祭壇もなにもいらないから安くてしてくれ」といわれ、一度は断わりかけたものの、10万円で引き受けた。何もいらないにしても、火葬場の支払いやドライアイス代金は削れない。「正直、人件費を考えると赤になるかどうか」のラインだとか。
 亡くなったのは、産後数日の赤ん坊だった。
「病院に伺ったら、どうもお金がないとかというのでもなさそうなんですよ。ご夫婦とも年齢は三十半ばくらい。貧しくて、葬式もできないとかいうのならわかるんですけど、喪主さんの身なりをみていると、お金に困っているふうじゃないんです。花とか祭壇は要らない。直葬でいいからって。病院の遺体安置所から直接、火葬場に行くのでいいというんですよね」
 シマさんはため息をつく。
「でもねぇ、生まれたばかりの子供さんでしょう。お花も要らないといわれても、なんぼなんでもねぇ。なんか、いやだなぁと思って、断ろうと思ったんです。金額のことよりも、なんかちがうんじゃないかって。でも、奥さんのほうはえらい悲しんでおられて、それ見たらねぇ……。だから『わかりました。花は別にうちで出させていただきます』というて、お引き受けはしたんですけど……」
 ざらついた感触が残ってしまったのは、火葬場に運ぶ前に赤ちゃんを自宅につれていって寝かせてあげたほうがいいのではと、やんわりと申し出た。必要ないとはねつけられたことだ。
 通常、遺体を運ぶ搬送クルマの手配は葬儀代金に組み込まれ、タダではない。それを倹約したいということなのだろうか。
 専門のクルマを使わずとも、マイカーなりタクシーを使うなりして、家に連れ帰ることぐらいしてあげたらと、子供のいないワタシですら思う。聞いているワタシのほうが彼以上に納得できずにいた。
「どうも、気持ちとして、やりきれないというか……。そういう喪主さんにあたるともういやになりますよ」
 シマさんは小さく笑った。葬儀屋という仕事は、モノを売る稼業ではない。どちらかというと、サービス職にちかい。いろいろ転職し、やりがいを感じて葬儀屋の仕事を選んだシマさんだけに、ほんとうにやりきれないのだろう。
 話を聞いていると、お葬式から「弔う」という気持ちが抜け落ちて、電化製品を選ぶ感覚に近づいてしまったのかもしれないと思えてきた。あるいはインターネットで吟味して、温泉地の旅館を選ぶような。損をしたくないのは誰しも考えるところだが、高じると、ちがう方向に暴走していくように思えてきた。
 ワタシは、父の葬儀の喪主を体験してみて、お葬式じたいはやってよかったと思っている。島田裕巳さんの『戒名は、自分で決める』という本に感化され、自分が父の戒名をつけるということをしたために檀家だったお寺の住職の逆鱗にふれ、思わぬ展開にあたふたはしたものの、それも含めて弔いの時間をもてたことはよかったといまでも思っている。「悼む」というのは死者をどう見送るか、どのようにして見送りたいかであるから。
 華々しい飾りものもいらない。だからシンプルな家族葬を選びもした。それでも、これは切り縮めたらあかんのとちがうかなぁというのはあるように思うのだ。
 もし、そこもいらないとするなら一切ひとに頼まず、自分で火葬場を予約し、遺体はマイカーで運ぶ。水道の修理をホームセンターで器具を買ってきてすますように、自分でやればいちばんお金はかからず、そうしても法的には何ら問題はない。それも選択肢のひとつ。考え方次第である。実際、そういうひとが増えてくるのではないか。
 ワタシが子どものころのお葬式というと、黒白の幕が張られた近くをうろうろしていると、キャラメルや都こんぶなどのお菓子をもらえた。人が死ぬというのがどういうことかよくわかっていなかった年齢で、いつ配られるのかとお菓子を待っていたりした。

   そういう風習もいつのころからかなくなってき、バブルのころの大層なものは消え、いまはうちうちの家族で行うお葬式が主流になりつつある。親戚や仕事関係、近所のひとの目を意識して、「それなりのお葬式」をしなければいけないという見得や負荷がなくなり、とたんに「安ければやすいほどいい」という損得があらわになろうとしているのが、ちょうどいまなのだろう
 ただ、むきだしに「安くしろ」「負けろ」の消費者圧力が強まると、日本のメーカーが価格競争の結果、中国に海外に生産拠点を移していったような事態が起き、やがては食の安全リスクとなってかえって来る。そういうブーメランが起きるのではないだろうか。どうなのだろう。
 といいながら、食器や食材はおいしく食べるんだからと店を探すいっぽうで、百円均一でよさそうなものは相変わらず安い店で選んだりしているのだが。いまだに、百円で、へぇーこんなのまでといろんな工具が売られているのを目にすると、こんな値段で作っている生産者は食べていけているんやろうかと不思議になる。

 

父の戒名をつけてみました

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葬式は、要らない (幻冬舎新書)

0葬 ――あっさり死ぬ

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/