脱走するのも、とどまるのも
池辺葵の『かごめかごめ』(秋田書店)は、修道女のシスターたちのお話。B6版のコミックにしては、1200円は高いなぁと思ったら、オールカラーだった。
読みはじめると、価格を上げてもカラーにしたことに納得。ぜんたいにくすみがかった淡い色で、ポイントでカーペットの赤、食べ物とかの鮮やかな色が演出効果をあげている。修道院といえばジミな印象があるからピザを焼くところのチーズとの取り合わせの赤と白、市場の野菜とかの色鮮やかさだとかは目にうれしい。
たぶん、くすんだ色を選んだのは題材に絡んでのことなのだろうし、鮮やかな配色もまたそうなのだろう。
ここからはネタバレを含みます。大筋を知って読んだからとてぜんぜん面白みは半減しない、つよい作品ですけどね。昔、巻数ものの文庫の解説で、作者らしい小説の機微を示すところの描写を、次の巻から抜き出して紹介したら、読者から楽しみを奪うんじゃない「殺してやる。三流ライター」と激怒されたもので(苦笑)。
修道院にいるのは、「マザー」と呼ばれる先生たち、「シスター」という先輩、そして「ジュニア」と呼ばれるオチビさんたち。全員、女。男は「悪魔」といわれ、接触が禁じられている。そういう場所。
「主」に仕え「男」を忌避する社会だけに、それぞれが外に居場所を得られなかった事情があって、ここにいる。ジュニアたちの多くは捨て子で、シェルターみたいなもの。いっぽう外からしたら、不幸な女たちが巣くっている別世界という捉え方をされている。だから「かごめかごめ」。
ちなみに、口ずさんだことのあるあの唄は作品のなかには出てきません。
適正というのか。同じシスターでも、神に仕えるにふさわしい娘と、そうでない娘がいて、どういうタイプが修道院で長続きするのか。ピッタリと見えていたヒロインが何年かしてみると、逃げ出し、残っているのは落ちこぼれっぽく見えていたオチビさんやナナメに見据えていたシスターだといった逆転劇が起こる。このマンガはそうした「人生なんてわかんないもの」を描いている。
逃げ出すひとと、残ったひと。その比較対照を描いたマンガに、連合赤軍事件の「あさま山荘」にいたるまでをドキュメタリーふうに描いた『レッド』(山本直樹・講談社)がある。
山本直樹さんは、山岳アジトに集まった若者たちが、逃げようとすれば逃げ出せたはずなのに、どうしてそうしなかったのか。結果的に仲間殺しという惨劇の被害者、加害者となった。それを思想ではなく、個人に網をかける社会心理から捉えようとした、画期的な作品。山本さん自身が高校時代にバスケット部にいて、補欠で辞めたいと思いながらやめられなかったのが原点にあったと話されていたのが取材での印象に残っている。
ハナシはすこし逸れるけど、『かごめかごめ』を読みながらワタシが思い出したのは高校のときの卓球部。「レッツビギン!」とかいって、当時、熱血高校教師が奮闘する学園ドラマが全盛のころだった。
日曜にテレビ放映があり、月曜日の放課後になると二年生の先輩たちがやたらと張り切って、新入生を並べ、うさぎ跳びをやらせる。ランニングをさせる。腹筋をやらせる。にやにやしながら、シゴクわけですよ。
高校はバス通学で、ゴルフ場を横目にしながらうねうねと20分近く登っていった山の頂上、起伏にとんでいる場所にあった。ただ走るだけのランニングがすでにジゴクでした。
卓球部なのに、なんでサッカー部よりもハードなトレーニングをせなアカンのよ。うさぎ跳びにどんな意味があるんよ。それに卓球部の戦歴は、毎年地区大会の一回戦止まり。毎日毎日素振りばかりでしたね。顔の鼻のところに、ラケットがくるように振るんだと、教えられ、そういうものだと素直にやっていましたが。ちょっと列から離れてみたとき、一年生が固まって、ラケット振っているのは、ネジの器械みたい。そればっかりやっているものだから統率がとれていて、北朝鮮っぽかった。
思えば、体育館にある卓球台は3つ。球を打ち合えるのは6人。部員は一年生だけでも30人ちかい。毎日まいにち全員が球拾いなのはいうまでもなく。うさぎ跳びは、ふるい落とし、やめさせるためのものだったんですよね。
見張り役の二年生たちにしても、卓球台でラケットを振るのを見かけたことがなかった。数少ない三年たちがいつもそこを使い、あきると二年生を指名する。貧しいヒエラルキーががっしりとつくられていたんですよね。
結局そのうさぎ跳びがいやで途中でやめてしまったのだが、続けようかどうしょうか。夢にまでビギン先生が出てきて、追い掛けまわされたものだった。
退部してからがヒマで、しばらくはウジウジしていた。おかげでというのもなんだけど『かごめかごめ』のシスターが、あるとき思いもかけない決断をする、その前夜の光景は、わかるわかる、です。深さも事象もちがうんだけど(笑)。
ヒロインのシスターは周囲から模範とされながらも、恋心を秘めている。何年も抑え、断ち切ろうとしたあげくにある日、爆発するというのが物語のスジ。台詞とかでの説明がすくなく、一読目はわからないこともある。しかし再読してみると、心模様を丁寧に絵で描いていて、ことばの少なささが深みをつくりだしてもいる。
親友のシスターと、ヒロインと同部屋で教えを受けていたオチビさん。再読すると、ふたりの視点から、蓋をされたヒロインの激情が明かされていく。
主か、男か。
信仰か、恋か。
彼女はついに後者を選び、修道院から姿を消す。脱獄するかのように。
彼女のことを誰よりも好いて、彼女のようなシスターになりたい。そう思い、金魚のフンのように付き従っていたオチビさんは、自分が何も打ち明けてもらえなかったことにショックを受ける。
「これで捨てられるのは、二度目だわ」オチビさんのつぶやき。
オチビさんは赤ん坊のころ、娼婦だった母親に捨てられ、ヒロインがバスケットに入れられたのを見つけて修道院にひきとられる。その嵐の日、彼女は男のもとに逃げ出そうとしていた。その行動を止めたのがオチビさんだった。だから、ヒロインにとってもオチビさんは特別な存在なのだけど……。
再読してみて、このマンガの本当の主人公は、捨て子だったオチビさんのほうなのだと気づかされる。
冒頭のシーン。床を雑巾で拭く、そのやり方を注意するヒロインと、見上げるオチビさん。ふたりのこの場面がとてもいい。
小言を言われる。ほかの娘たちよりも、オチビさんは厳しく言われている。それが、シスターの特別な感情からするものだというのが読み取れる。オチビさんも、それを理解している。
ちょっと鈍そうに見えたオチビさんが、ヒロインのいなくなった「その後」どのような人生をたどるのか。そこがこの作品の背骨だ。
修道女の駆け落ちは、オチビさんを軸にして読むと、おそらくどんなに時間を経てもずっと忘れることのない記憶として刻まれる。それは、個的でありながらどこか普遍的なハナシでもあるだろう。
そういえば、池辺葵の作品で、祖母が営んでいた洋裁店を継いだ女性が主人公の『繕い裁つ人』も、迷いながらも自分の選んでいくというところの主題で、本作と通じている。テーマをぎゅぎゅっと凝縮したら、この作品につながるというか。
独特な厳しい世界というと、日曜のお楽しみ、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」。先週は、京都の舞妓さんの話だった。修学旅行で見た舞妓さんに魅了され、16歳で舞妓見習いになった女子を追っていた。
笑顔の可愛い少女で、物怖じしない。踊りや唄の経験はないのに、先生たちからも「スジがいい」とほめられる。期待の逸材というわけだ。
たいてい誰もが入ってまもなく壁にぶつかるというのに、彼女の場合はそれもなくスイスイといっていた、かに見えていた。
兆しは、半年も過ぎたあたりから。笑顔は相変わらずなのだが、稽古の時間に遅れてしまう。それも一度や二度ではない。
それでなくとも躾に厳しい世界。駆け出しの舞妓が、お師匠さんを待たせるなんて、とんでもない。置屋の「おかあさん」は、ハラハラと気をもんでいる。
遅刻の理由は、寝坊なんかではない。化粧をしていて、ついついということらしい。「あんたなぁ、そこそこにせんとあかんよ」とおかあさん。
はい、と返事をするのも笑顔。が、鏡に向かうと「ついつい」なかなかそうはいかない。
テレビのスタッフはそんな彼女を見て、口にはしない悩みがあるのではと推量する。笑顔は、それを隠す仮面ではないのかと。
いっとき実家に帰省した際、兄のアパートを訪ねる。カメラも同行する。
兄妹ふたりで料理をする場面で、舞妓はふだん台所には立たないものだけど、というナレーションがかぶさる。
いい取材だと思ったのは、兄が妹について、外面がよすぎるから心配だという。反抗期のときには、家では感情をあらわにしていたけれど、そのころも外ではそうした一面は見せなかったという。兄が話すのを、傍で妹が聞いている。
カメラは中学校の先生に会いにいくところにもついていく。たしかに、笑顔のいい子。というか、ずっと笑顔なのだ。
自覚のないストレスが鏡の前から彼女を離れられなくしている、らしいというふうに、こちらにも読み取らせていく。断定じゃなくて「らしい」というナビの仕方に好感がもてた。
2年後、取材を再開する。いなくなっているのでは、という不安すら抱かせる。カメラは、ちょっとタフになった姿を映しだす。
相変わらず、ときおりは遅刻するらしく、「おかあさん」はやきもきしている。
化粧台の鏡の前と横、三つも大きな時計がかけてある。「これでも、あぶないんです」と弾んだ声の彼女。呆れながらも、そうかそうかと、コチラも笑ってしまった。
これもある意味「かごめかごめ」。厳しいシキタリの世界に飛び込んだ、いまどきの娘たちが辛くて泣く、そういう場面をカメラはずっと狙っているのだけれど、彼女はなかなか涙を見せない。以前、取り上げた先輩の舞妓さんなんかは、しょっちゅう泣いていたのに、と比較されもする。
それをとっても逸材というわけだが、おかあさんや先輩たちは、だからかえって怖いという。
実際、遅刻がひどかったころには朝食べたものをもどすということもしていたと告白する。
でも、どうやらこうやら、いまやっていますというところでテレビは終わった。「このあと」どうなるんでしょうね、彼女のその後が気にかかる。
「ザ・ノンフィクション」は、かつては毎週1本、新しい題材で放映していたが、ドキュメンタリー全般にいえることだが、経費削減もあり、この数年は過去に放映し人気のあったものを再放映するのと、それらの「その後」を追う方向に切り替わっている。
結果的に、視聴者もまたひとりの人間を長いことかけ見続け、「その後」にいろんなドラマが待ち構えているというのをあらためて認識させてくれている。
取材者というのは、どこかでピリオドを打たないといけない。終わらせないことには発表ができない。雑誌でも本でも映像でもなんでもそうだ。終わりは、取材する側の恣意的な付箋でしかない。「終」としたものも、取材を受けた側にすれば「完」ではない。
ワタシは雑誌のライターをしてから「終」のスタンプを大量につけてきたけど、ここしばらく10年ぶりとかに取材をする機会をもつようになったのも、付箋そのものを疑問に思う心理が働いているからかもしれない。
ところで、横浜ベイスターズの中村ノリさんが、FAを宣言するとか。8月に平塚球場のファームの試合を観にいったとき、彼がバッターボックスに立つと、「必殺仕置き人」のテーマソングが流れ、スタンドで歓声が起こった。
世間ではチームワークを乱す「黒ノリ」とかいわれ評判はよろしくないが、打席に立つと、遠目からでも彼だとわかる構え方ひとつ、ピッチャーに対して左足を三塁側に並行にとるスタイル、バットの構え。指揮官に嫌われ、今年はずっと二軍漬けにされ、このまま終わるとしたら、とても残念だ。あいかわらずのフルスイングだけに。
- 作者: 朝山実
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
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