レトロ感にハマる、「恐怖のミイラ」のつづく。
今年のマイベスト・サスペンスになりそうなのが、『後妻業』黒川博行著(文藝春秋)。関西弁の笑いとともに、じわじわっと怖さがまします。
「ごさいぎょう」と読む。作者の造語なのでしょうが、妻に先立たれた資産家の家に入り込み、遺産を騙し取る話。警察が介入を手控える巧妙な手口。しかも被害者は一人や二人ではない。これは模倣犯が出てきそう、と思いながら読み終えたが、じつは現実にあった話を下敷きにしているとか。連続不審死事件として埋もれたままマスメディアが取り上げない「怖い事件」はまだまだあるということか。
詳しくは、「という本の話」
http://www.norththai.jp/ex_html/ma/view.php?id_view=64
さて。怖いつながりで、「恐怖のミイラ」のつづきです。
ツッコミ③……この家庭、ヤバクないのか。
父親が誰かに殺されたというのに、翌日の家族の食卓風景には、かなしみが感じられない。そもそも、父親が死んだら葬儀であわただしいだろうに、その場面もない。
家族の台詞としては憔悴しているんですが、小学生の長男なんて「仇をとってやる」とかいって元気いっぱい。はきはきとした「子役っぷり」の笑顔がねぇ、父親をなくした少年にしては不自然すぎるというか、そもそもこの家族、姉と弟との年の差がひとまわり開いてそうだし、夫人は後妻だったのだろうか。
夫人の弟で法医学教室の助手をしているというイケメンふうな居候が、民間人なのにいろいろ警察に協力してニワカ探偵みたいに活躍するのはまあともかく、未解決の殺人事件が起きた家庭にもかかわらず、そんなことはなかったかに見えるくらいの妙な落ち着きぶり。
夕飯どきも居候の彼は、バーモントカレーのCMで「ヒデキ、かんげき」というのがあったけど、あんな顔をして朗らかすぎというか。
ミステリーファンなら、ミイラのことよりも、この一家に漂う妙な気配に想像を膨らませかねない。でも、もちろんそういうセンはなく物語は進展していくわけですが。
しつこいですが、この妙さはなんなのだろうか。考えちゃいます。
アメリカのテレビ映画の影響だったのか。家族全員で夕飯を楽しむ。「家庭はこうあるべき」という理想像というのでしょうか。小学生のおちびさんがフォークとナイフで肉料理を食べるシーンが印象的です。
後に、なぜ博士が殺されなければいけなかったのか。原因を突き止めようと居候氏の先導で、博士の日記を家族で読むシーンが出てきます。
これじたいはおかしくはないのですが、引いた目でみると、居候の彼と長女とが夫婦で、弟は彼らの子供、さらにお母さんがいて、そんな構図なんですよね。
研究に没頭していた教授は家にずっと在宅しているものの無口で厳格な存在。いなくなって、家族は安堵しているふうにすら見えなくもない。まあ、それはかんぐりがすぎるとはわかっていはいますが、何十年ぶりかで見直すと「ミイラの恐怖」よりも、この家族のありように興味がわいて仕方がないのです。資産家で、上品に振舞ってはいるけれど「仮面一家じゃないか」ってことなんですけどね。
ツッコミ④……ミイラが逃亡しながら、なぜかひとりでバーに入っていく。
場所は銀座あたりらしい。トレンチコートにシルクハットを目深に被っているので、最初はミイラに気づいていなかった常連客たちが、男の倣岸ともとれる態度にトラブルとなり、次々と首をへし折られる。
しかし、なんでバーに入ったのか? わかりません。というか、カウンターに腰掛けて、ミイラは酒を飲もうとする。酒飲むのか、おいおい。そもそもなんでバーなのか。
ドラマの展開上、殺人にいたるトラブルを入れようとしたんでしょうけど、このあたりから展開は「事件もの」として警察が登場するシーンが多くなります。
「理由なき連続殺人犯」として、警察は謎の男のモンタージュを作成、指名手配をします。
その顔が、目をそむけたくなるくらい醜いもので、「恐怖」の所以です。ただし、まだこの時点では「まさかミイラが生き返るなんて」と刑事たちは考えていて、長身のトレンチコートの男を人間として追うわけです。
当時はトレンチが流行っていたんでしょうね。ハンフリー・ボガードとかの、あのスタイルです。それをミイラも真似てみたわけですが、足下のショットが多く、最初は包帯をぐるぐるに巻いて裸足だったのが、いつの間にかズボンに靴履きに変わっている。
そうでもなければ目立ちすぎて、街中を徘徊するなんて無理だからでしょうが。トレンチを羽織ってからというもの、ミイラは急速に現代社会に溶け込んでゆきます。
でも、そもそも、なんで長身なんでしょうね。古代のミイラなのに2メートルちかくある。
蘇生薬を肌につけることで、腐乱していた顔は治りかけ、出遭い頭に顔面の異様さに失神したりするひとが続出していたのが、いつしか「ちょっとハンサムなガイジン」になってゆく。これでは、恐くともなんともない。それじゃ困るというので、ショックでもとの顔になったと設定を変更したりで、ブレまくること。
醜いのかハンサムなのか、どっちやねんて(笑)。
しかも、です。最初は足をひきずりながら歩行していたんです。ゆっくりゆっくり。フランケンシュタイン映画みたいに。考えたら、長身なのも、巨体でないことには恐くないですしね。
でも、その歩行です。追いかけられて逃げるときに、ふつうに走っていたりする。足が悪そうだったのは見せていただけなんかい?
というふうにツッコミまくりながら、面白くておもしろくて。そしてアゼンです。
かつて子供のころ震え上がっていた記憶がいまも鮮烈なわりに、肝心のストーリーも場面も登場人物も、いっさいなにひとつ覚えていない。
愕然としました、ワタシ、自分に。憶えていたのは、オープニングの有名なシーンと音楽だけ。
牧冬吉(「仮面の忍者・赤影」出演の白影)が強盗団の若いチンピラ役で出ていて、米国の有名な金庫破りの鍵師と間違われたミイラが、強盗一味と行動を共にするという枝葉なハナシを見るにつけ、もう過去に見た「恐怖」は消散しちゃいました。
十数回もの放映があったということは、ミイラは人間社会を「逃亡者」のようにして逃れ続けなければいけないわけで、そのためにはこういう接触もあるのだろうなぁと。
ドラマして見ていて、ほろっとしかけたのは、ギャング団の紅一点の女性が、ミイラが無口でブアイソウなのは、顔のケロイドを気にしているからだと察し、「気にしなくていいんだよ」と声をかける。
躊躇なく警備員を射殺したりする悪人ながら、そういうところはいい女なんですよ。「顔」を恐れたりしない。牧冬吉も、初めて見たときは、目をそらしはしたけど、嫌がりはしなかったし。アウトローは、外見で差別しないということなんですかね。
放映されたのは1961年というから、60年の安保闘争のあとで、街にはまだ傷病兵の物乞いがいたり、ヒロシマの被爆の映像とかも流れていたころです。
画面に映るトーキョー都心の景色も、ビルは丸の内界隈の限られたところにしかなく、ほとんどは平屋の町並みで、そこをミイラは逃げていく。捜査シーンの、昭和の風景に安堵したりします。パトカーにもなんか愛嬌がある。
ああ、そうそう。1961年の放映は、夜7時30分から「森下仁丹の一社提供」だったとか。まだその頃はわが家にテレビはなかったので、ワタシが目にしたのはそれから数年後の再放映だったと思われます。
数年前の番組の「再放映」ですら、テレビ欄で大きく紹介していた時代でした。新人俳優の千葉眞一主演の「七色仮面」「アラーの使者」や「ナショナルキッド」なんか再放映していましたから。やらなかったのはゴジラのパクリの「マリンコング」くらいかなぁ。あれも当時は恐かったけど、もう見ないほうがいいのでしょうね。
現在、ツタヤのレンタル、残りはあと2巻。恐くはない。みょうにあとをひきます。
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