ニセモノから本物について考える、愉しい絵本。
『ぼくのニセモノをつくるには』ヨシタケシンスケ著(ブロンズ新社)から、
絵本です。コドモもオトナも楽しめます。
ヨシタケさんはイラストレーターで、週刊文春の土屋賢二さんのエッセイで、一コマまんがを連載していて、手にしたらまずココを見ます。ちなみに週刊朝日だと、山科けいすけさんの「パパはなんだかわからない」ですね。
どんな話かというと、しゅくだいとか、おてつだいがいやだと思っている「けんたクン・小3」が、おこづかいをためて「おてつだいロボット」を買い、いやなことをぜんぶやってもらおうとする。つまり、身代わり、時代劇でいう「影武者」をこしらえようとする。コドモのとき、いいな、そういうのがアレバと一度は考えましたよね。
ロボットは手に入ったものの、身代わりにするには「ジブンそっくり」にしないといけない。それでロボットくんから、けんたクンはいろいろ質問を受けます。
バレないようにするにはどうしたらいいか。
ボクらしいことってなんだろう……。
もうお分かりでしょうが、「それまで考えもしなかったジブンというものについて考えていく」というのが、本書のテーマです。
「すき」と「きらい」。「できること」と「できないこと」に始まり、「昔のぼく」を思い出したり、アンケートをとったりします。
けんたクンの年齢を小学3年生に設定しているのは、絶妙です。大昔に、そういえばワタシが「ジブン」に興味をもったのもこれくらいのころでした。
けんたクンのジブン検証で「ぼくらしい」て何かと考えているなかに、部屋の隅っこにモノを押し込んでいるのを見てお父さんが、「こんなことをするのは、けんただな」とつぶやくシーンがあります。
けんたクンにしてみたら、そんなちいさなことはジブンらしさには当たらないことなのに、なぜか言い当てられてしまう。
ミステリーで、容疑者の周辺を調べていくと、ひとによってちがう印象を語る。「ほんとうはどうなんだ!?」と迷走する、そんな小説だったり映画だったりするほうが面白いと思うものですが、けんたクンについて、おかあさん、おとうと、クラスの女子……が証言する場面がよくできています。
セルフイメージは、あごに指をあてたカッコイイ男の子。
でも、おとうとの目には、おもちゃをひとりじめするイジワル。
ある女子には、いばっているオシャベリさん。
おばあちゃんだと、いい孫。
飼い猫は、「ごはんをくれる」ともだち。
そんなふうに、相手によって見えている顔もちがう。けんたクンに限らず、ニンゲンって本来いろんな顔をもっているのがフツーなんだということがよくわかります。
とうぜん場所によっても、いろんなボクがいる。
有吉佐和子さんの『悪女について』だったと思いますが、親切なひとだったというひとがいたかと思えば、あんなに悪いひとはいないというひともいて、同じ人間について書かれた話と思えない。犯人かどうかよりも多面性にぞくぞくした記憶がありますが、そういうののエッセンスを感じます。コドモに向けてそれを絵本にするのがすごい!!
「……ていうか、こんなにややこしいとニセモノになるのなんてムリじゃない?」
考えれば考えるほど、けんたクンは、ロボットを身代わりにすることの大変さを感じて、心細げな顔つきになるのですが、ロボットはマイペース。ただの四角いアタマをしたロボットですから、顔ひとつにしても彼をけんたクンに仕立てるにはできない相談です。
が、影武者になるためにロボットはいつも一緒にいて、真似るというか、似てくるというのか。うごきとか、そっくりで、なんか楽しそう。
手にされることがあったら、ぜひカバーをはずしてみてください。
表紙の裏のけんたクンがひとりのときのアルバムのようなショボンとしている場面の数々と、裏表紙の裏の、ふたりで虫取りをしたり、花壇のブロックの上を両手をひろげて歩行したり、その楽しげな顔つきとの落差に、ジーンとしています。「スタンドバイミー」の映画みたいです。
けっこう好きなのは、動物園に行くシーン。ニコニコ顔のワニとライオンが会話している。
「どの子も おいしそうだネ」とライオンがいうと、
「うん。たべちゃうんだったら べつにどの子でも いいなー」て。
ひとり一人はちがう、そのちがいは何だろうということを考えていく物語なのにね。「どの子でもいい」というのは、どかんと舞台をひっくりかえしてしまうようで、すごいです(笑)。
ほかにも、気づいていない仕掛けがあるかもしれません。