ゴトウさんとジョン・メイとハルナさんと
『おみおくりの作法』(ウベルト・パゾリーニ監督)
映画『おみおくりの作法』 http://bitters.co.jp/omiokuri/
主人公のジョン・メイは、ロンドン郊外の地区の民生係として働く44歳の男。長いことアパートでひとり暮らしをしていて、親しい友人はいないらしい。
彼の仕事は、孤独死をした故人の近親者を探しだし、葬儀に出てもらえないかとお願いする。その仕事ぶりはとても丁寧で、近親者を見つけ出そうとギリギリまで粘る。
それでも教会での葬儀に列席するのは、たいてい彼ひとり。亡くなったひとの人生を調べ、そのためにジョン・メイは何人ものひとに会い、どんな人物だったかを尋ねる。そして葬儀の際に、故人の人生を牧師さんにスピーチしてもらうための原稿を書き、見送る。弔辞を耳にするのは、棺とジョン・メイに限られる。なんとも物寂しい風景である。
ワタシがインタビューの仕事をしていることもあり、彼のそのやり方には、とても近しいものを感じた。しかも、彼は見送るにあたって、そのひとにいちばん合う曲を選び出す、そのことにヤリガイを感じてもいる。
そしてある日、新しい上司から呼び出された彼は解雇を言い渡される。コストダウンをはかるためで、ジョン・メイは時間をかけすぎたというのだ。
仕事を引き継ぐことになった女性の仕事ぶりを目にしたジョンは、物悲しい表情をする。彼がやってきたのとはまるで違っていた。相手がだれであれジョンは「ひと」として、壜にひとりずつ納められた遺灰に接してきたのに対して、女性はモノ、数としかみていない。
新任の女性とジョンの仕事ぶりの対比。そして、彼の曇る顔つきが印象的だ。
この映画が素晴らしいのは、ジョンの表情が変化に乏しく、一日中陰気な顔つきをしている。その印象を最初に観客に植えつけていく。最後の仕事にあたって彼は、これまで以上に丁寧に、亡くなった男が残した傷んだアルバムを手がかり、娘を探し、アルバムを渡そうとする。旅する。その仕事の中で、ジョンの表情があきらかに変わる瞬間である。
人生に何の楽しみも感じずに生きているんだろう、彼は。そう思いながら観ていた。
ネタバレになるから詳細は伏せるけど、ラスト10分くらい前かな。彼はコーヒーカップを二つ購入する。犬の絵のついたカップだ。高いものではない。それを買って店を出たときのジョンはほんとうに幸せな表情で、はにかんでいる。観客として、やがて訪れるであろう、その時間を祝福する思いで眺めるばかりである。
そこからの10分は、映画としてこれ以上ないくらいに素晴らしい。そして、いいあらわしようのないくらい、せつない。
顛末に対して、いろんな見方はあると思うが、ワタシは彼を幸せなひとだと思う。そして、無表情な男を演じた俳優エディ・マーサンには、演じるということだと驚かされた。
パンフレットを見ると、「一人ぽっちで死ぬのも悪くない。こんな人が最期にてくれるなら。いつの間にか、主人公の笑顔に癒されていた」と島田裕巳さんがコメントしているが、そうだなと思う。
話は変わるが、イスラム国に誘拐されて殺害されたハルナさんについて、先日ラジオで、大竹まことさんが、こんな話をしていた。
ゴトウさんのことについては多くのひとが悲しみ悼むことばを口にするのに、ハルナさんについては耳にしない。彼にいろいろ問題があったからだろうけど、でも考えてみてよ、俺はダメな人間だから、どっちかっていうとハルナさんよりなんだよ。だからさぁ考えてみよて、と大竹さんはいうのだ。
そうだと思う。
これは推測だけど、ゴトウさんと出会う中で、ハルナさんはすこしずつ変わろうとしていたのではないのか。だからゴトウさんは放っておけず、危険を承知でハルナさんを助けに行こうとしたのではないかなぁ。
事情をまったく知らない人間がいうのはなんだけど、ジャン・メイに後藤健二さんが重なってみえてしかたなかった。
ジョンが時間をかけて、近親者が友人を探した故人は、どちらかというと、問題のあるひとたちで、リッパなだけのひとはひとりもいない。ひとづきあいが途絶えていたのも、調べればそれなりの人生を歩んできたひとたちばかり。でも、だからといって、ジョンは軽んじることなく、そのひとりひとりの写真を自分のアルバムに貼り付ける。だれも、みんな平等に。
パンフレットを読むと、劇中の写真はぜんぶ実際の故人のものを譲り受けたものだと監督は語っている。リアルな力というのはそういうものなのだろう。
そういえば解雇を告げられ、最後の仕事をおえたジョンが淡々とズボンのベルトを窓に巻きつけ、強度を確かめる場面がある。
最初は意味がわからなかった。
理解したとたん、恐くなった。
仕事だけに生きてきたジョン・メイ。そんな彼から、仕事を奪うなんて……。
最後の仕事。メイを称えるラストを目にして、島田さんと同じ気持ちになった。そして、ハルナさんの死は悲劇であっても、危険を顧みずに助けにやって来てくれる友人がいたというのはとても幸せなことだったと思う。たとえ望んでも容易には適わないことでもあると。