わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

指先の感触

 

 全盲で耳も聴こえない妻と、五十をこえてから結婚した夫のふたりが、田舎の村で静かに生活するドキュメンタリーを深夜にやっていた。何度か再放送していたらしい。
 妻が視力を失ったのは、四十代で、聴覚は幼いころだという。

 ふたりの会話は、夫が妻の手のひらに文字を書く。触手による手話があるらしい。
 家事は、妻が担当。目は見えないけれど、ガスコンロにフランパンを置いて、調理する手順をカメラはじっと追っていた。

 どこに何があるのか。家の中の配置はぜんぶ頭に入っているらしく、その記憶力に驚かされる。
 指先をフライパンにあて、溶いた玉子を投じるタイミングをはかる。
 きれい好きで、浴槽も時間をかけて磨きあげる。


 夫は、妻のこしらえた弁当をもって畑仕事に出かけていくのだが、朝、ふたりにとって大事な時間がある。ドラマを一緒に見ることだ。
 耳も聴こえない妻がどのようにしてテレビを見るのか。
 テレビを横目に夫は、妻の手に指でサインのようなものを書き込んでいく。くくっ。妻が笑う。いい笑顔だ。 
 ずっと仲がいいわけでもない。妻は、小言をいう。夫がいかにダメか。
 夫はカメラの前で肩をすくめる。
 目が見えていたら、どこにでもいる夫婦だ。最初の驚きはうすれ、なんのヘンテツもない夫婦に思いこんでしまっていた。

 
 これは数日前の平日の午後に見かけたこと。映画館を出ると、伸長差のあるカップルに目が止まった。ラブホテルが立ち並ぶ一角で、女性は男性の肩の高さあたりに手をあげ、男性はその指先をつまむようにして前に立っていた。
「……までついていってあげますよ」「すみません」という話し声が耳に入った。
 女性がペコリペコリと頭をさげていた。リクルート学生のような黒いスーツを着込んでいて、道に迷っていたのだろうか。手に先の白い杖。


 駅で杖をついたひとを見かけることはある。でも、こんな場所といってはなんだけど、陽がまだ高いとはいえラブホテルの密集地はミスマッチに思えた。目が見えていたら、さっさと通り抜けるなりしていたのだろうけど、見えないからこそ往生していたのだろう。

 すごいなぁと思った。知らない場所にたったひとりで出かけていくということの、まず勇気に。知らないひとを頼ることができるということにも。目に不安があるので、そうなったときの恐怖がワタシには大きい。ダンスの手を踊るようにして、男のひとが女性の半歩前を歩くのをしばらく目で追っていた。 

 
 あの全盲の妻と結婚した夫は、ボランティアを通じて知り合ったという。
 わたしなんかと結婚してくれてこのひとに感謝しています、
 なんてことを妻は口にしない。彼女のほうは再婚。「べつに結婚なんかしなくてもよかったんだけど」と、すこし無愛想だ。「わたしがいないとあのひとはダメだから」ともいう。そう言って、せかせかとひとり家事をこなす姿をカメラは映す。
 よくある、ふつうの夫婦である。ただ、あのときテレビを見ていて、しっくりこなかったことがあった。夫の手話でドラマのあらましが理解できたにせよ、スジなんかわかっても、それは面白いのか。

 夫の手が止まるたび、妻は、くくっ。幸せそうな笑みを浮かべる。疑問に思うこともあってか、そのシーンが印象に残った。

 
 そうか、そういうことか。
 あの笑い声は、ドラマの話がどうというよりも、夫がおまじないのようにして手のひらに書き込んでくれる、指の感触を日々愉しんでいたのではなかったのか。
 ふたりにとって朝のドラマを見ることは繰り返される日課で、妻はそれを楽しみにしているとナレーションがあった。
 そう、そういうことなんだよ、きっと。
 いつもそういうことに気づくのに時間がかかる。

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/