「205号室」の六原豊子さんが残していった雑巾のこととか
長嶋有の『三の隣は五号室』(中央公論新社)は、築50年の木造モルタルの二階建てアパートに居住した13組の住人たちの物語。
のようで、じつは、彼らの暮らしを観つづけたアパートそのものが主人公のように思えてしまう長編小説だ。
1966年から、2016年まで。登場する二階の真ん中の「205号室」の歴代住人たちの人物リスト(学生、OL、夫婦もの、単身赴任など)を読後につい作らずにはいられない構成が面白い。つまり、歴代の住人が順を追って語るというのではない。
ひとりを除いて、それぞれ平凡なひとたちなのだが、ちょっとだけ変わった間取りのアパートであったということが奇妙な連帯感を漂わせている。
もちろん、住人同士は前にどんな人間が住んでいたのか、後に誰か入居したのかも知りはしないのだけど。それでも、部屋に残された痕跡から、彼ら彼女なりに前の住人のことをほんの一瞬、想像したりする。
たとえば、6代目の六原睦郎・豊子(1985-88年居住)のあとに入居した、七瀬奈々は、掃除道具とともに置き忘れられた雑巾を、手縫いの縫製が丁寧なことから、愛用する。
その雑巾を縫ったのは、妻の豊子で、彼女は末期がんでなくなった。
豊子さんは、大きな物音は迷惑だと気遣い、ミシンを使う時間もなるべく短くしようとしていた。まあ、どこにでもいそうな人のいいオバチャンなのだが、入居中に亡くなった唯一の住人でもある。
夫の睦郎さんは、妻に病気のことを告げるべきかどうかで迷っていた。ふたりの老後がない、と知ったときの動揺が手に取るように伝わってくる。
雑巾は豊子さんの遺品ともいえるのだが、家族ではなく、あかの他人の後の入居者に受け継がれていく。そういうふうにして、かすかなつながりを人は人ともつことで、この世の中は出来上がっているのではないか。
そんなふうに思わされるエピソードが、ほかにもいくつか出てくる。といって、押し付けがましさもない。読み返すたび、発見のある、とてもいい小説だ。
豊子さんのことを考えていると、この頃は忘れてしまっている母のことを思い出した。
母がなくなったのは、8年付き合った彼女と結婚して3ヶ月ばかりの頃だった。
長患いで、とかいうこともない。突然の訃報だったけど、予知?らしきものがないこともなかった。
一週間くらい、毎日のように、いやな夢で目が覚めていた。歯が抜ける夢だった。ぐらぐらして。夢とは知らずにもがくのだ。
夏の暑い盛りのことだったこともあり、この季節になると思い出す。
父が生きていた頃は、墓参りをかね、実家の父の様子を見に帰省していたものだが、その父も東北の震災があった年に逝ってしまい、年々、足も遠のいてしまう。あの墓参は、母のためというよりも、父のためだったのかもしれない。
独居老人だと思いこんでいた父が、通いの家政婦さんとそういう仲になっていたと知ったのは、神戸の震災があった年のことで、いつもは前日に電話をして実家を訪ねていたのが、その日は仕事の終わりに、宿泊代を浮かそうとして立ち寄ったら、父親がそわそわし、もごもご。家政婦さんの具合がわるく、二階の部屋で寝ているのだとか。
結局、入籍はせずにそのまま事実婚のかたちをとるのだが、毎年、母の命日にきちんきちんと帰省していたのは、父へのあてつけのような気持ちも半分はあったように思う。
母の葬式のときに、喪主としての挨拶もろくにできないくらい憔悴しきっていた父が、喪もあけないうちに後妻の斡旋を、こっそり親戚のひとにしていたと知ったのもその頃だった。
年齢を経て、当時の父の年齢に近づいてくると、父の内面もわからなくはない。いや、つぶさにわかってしまう。でも、当時のわたしはわかろうとはしなかったし、老いとともに短気になっていく父のことを疎んじていた。
そういえば、母が亡くなった日のことを、父はこう話していた。
異変に気づいて、かかりつけの医師のところまで自転車の後ろに乗せて走った。徒歩5,6分の距離だ。
しかし、自転車は、あるときは「背負って走った」になったりする。「リヤカーに乗せて」のバージョンもあった。リヤカーなんて、とっくに家から消えていたのに。
とくにかく、父は、母と走ったことを強調する。
当時、父は60代後半。健康体とはいえ、さすがに走るのは無理やろうと思う。それに母が息をひきとったのは、実家の仏壇があった部屋だから、急変で病院に運んだのなら話としてもかみ合わない。
「そんなん、あるわけない!!」
当時、実家の離れに暮らしていた兄は、病人を後ろに乗せての自転車で走る元気なんて、あの父である、キミも、ちょっと考えたらわかるやろう。愚弟に対して、一笑に付していた。
いっぽう、父はというと、兄が何か話そうとするだけで激高する。そして、義姉の対応が、どんなに冷淡なものだったか。涙混じりの口舌はとまらなくなる。
「医者を呼んだのは、僕や。おやじは、もううろたえて。なんもできへんかったんやから」と兄。たぶん、公平にみて兄の話のほうが事実にちかいのだろう。
ではなぜ、そんなすぐに嘘とわかる話を父はつくりださないといけなかったのか。
最近ようやくにして、あのとき自身で電話ひとつすることができなかった父が、「妻を背負って走りたかった」と後悔を抱いていたのだろう、ということはわかってきた。そうでないと、やっていられなかったのだろう。
不甲斐ないがゆえ、それを自覚するがゆえ、せめてフィクションででも全力で走っていたかったのだろう。
ただ、父はそのフィクションを語り続けることで、体験と取り違えていった。
たぶん、そんなところなのだろうが、フィクションを嘲笑し否定する兄と父の関係は、その日を境にこじれにこじれていった。
その後のことは『父の戒名をつけて見ました』という本に書いたので割愛するが、「走りたかった」だろう父の狼狽ぶりから、わたしの頭の中では、豊子さんをなくした六原睦郎さんの、断片的にしか語れない「その後」が気になったりするのだ。