『THE ABSENCE OF TWO』(青幻舎)が話題の 写真家・吉田亮人さんに話を聞いた(後編)
会ったこともない他人なのに、なぜか郷愁に誘われる。祖母と従弟の生活を記録した『THE ABSENCE OF TWO』(青幻舎)を出された、 写真家・吉田亮人さんのロングインタビュー(後編)をupしました。
30を前にして、小学校の教員をやめ、写真家になる。ずっと写真家になりたいと思っていたとかいうのではない。ある日、妻が言った言葉が転機になったという。吉田さんはこれまで何度もそのことを話しては「それ盛っていませんか?」と言われるそうだ。
吉田さんの話を聞くうち、面白いひとだなぁと思った。吉田さんもそうだけど、吉田さんの奥さんが。
それに、すすすっとカメラマン人生を歩んできたかのようにも見える(ゆったりとした口調で、俺が俺が感がまるでない)のだが、写真家を志していちばんにした撮影が痛恨の出来事で、前史にあたるこの一件が、このひとの核はここなんだなぁと思った。
吉田さん(以下、略) 高校を卒業する前に、何をしようかと考えていたら、ばあちゃんに「あんたはやさしいから、身体が悪い人だとかのためになるような仕事はどうや?」と言われたことがあって。そっちの仕事を探していたら、理学療法士というのを知ったんですよ。
本に記されている吉田さんの経歴を見て惹かれたのが、小学校の教員をしていたこと、その前はタイで日本語教師をし、大学では障害児教育を専攻していたことだった。専門学校を卒業して写真家になったというのではない。大学の専攻が障害児教育という経歴も異色におもえた。
宮崎の実家のちかくに理学療法士の専門学校があったので、卒業したらそこに行こうと思っていたんです。
高校3年の担任の先生に言ったら、「おまえは大学に入っていろんな世界を知ったほうがいいぞ」。推薦してやるし、学校も俺が探してといてやるからって。推薦入試で受かったのが滋賀大学の教育学部だったんです。
入ってみたら、考えていたのと違った。まわりはみんな先生になりたいやつばっかりで。しかも、宮崎から滋賀県にひとりで出てきて、言葉もなじめない。だんだん学校に行かなくなり、部屋でゲームばっかりして、引きこもりのような状態やったんです。
──そうなんですか。
それで「学校辞めるわ」と親に言ったら、行かなくてもいいから2年生まではやってみろ、と親父に言われた。
それで、たまたまなんですけど、翌年の春に久しぶりに学校に行ったら、いまでも親友の三人と出会えた。「一緒にライブせえへん?」って学園祭があるからって声をかけられんですよ。
なんで俺なんやろう? でも、やりたいこともないし。やってみようかって。友達はいろんなことを知っているヤツらで、音楽とか映画とか僕の知らないカルチャーをもっていて、すごい影響を受けたんです。
──それまでにバンドとかやったことは?
楽器なんかやったことなかったので、ビートルズからはじめて。音楽をやるのが大学生活の目標になり、めっちゃ楽しくなっていったんです。
以降は、noteをご覧ください👇