わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

葬儀屋さんのインタビューをはじめました。

ブログ・インタビュー新連載

「葬儀屋、はじめました。」をはじめました。

拙著『父の戒名をつけてみました』の続篇というか、
ひょんなことから付き合いができた、
町の葬儀屋さんのインタビュー連載をはじめました。
ふつうだけど、変わっています。
覗いてもらえると嬉しいです。

 

otomu.hatenadiary.com

おぞけながらも読んでしまった『かわうそ堀怪談見習い』

  目にしたくない。なのに読んでしまった。二度も。というのがかわうそ堀怪談見習い』柴崎友香(角川書店)だ。

 

 

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 ワタシは幽霊よりも、虫が苦手。だからどんなに田舎暮らしに憧れがあっても、できっこない。理科の教科書は、載っている蜈蚣や蜘蛛の類のせいで頁を開けることができないばかりか、たまにパラッとその頁が開いて遭遇することがあると仰け反っていた。そこの頁を切り取ればよかった。いまさら後悔しても遅いけど。

 

 それぐらい苦手であるにもかかわらず、今回は蜘蛛が出てくる場面を二度も熟読してしまった。『かわうそ堀怪談見習い』は、大阪の「かわうそ堀」に暮らす小説家の主人公が、友人知人に怪談小説を書くためのネタを聞いていく。というのも、デビュー作がたまたま恋愛ドラマに使われて売れた、自分ではそんなつもりはなかったのに「恋愛作家」のレッテルまでつけられ、雑誌の恋愛相談なんかをやらせさられたこともある。

 

 しかし、その後ヒットがなく、どうにかしないといけないと思っていたときに編集者から提案されたのが「怪談作家」だった。見習いの意味はそういうこと。ちなみに、大阪に「立売堀」はあるが、「かわうそ掘」はない。地名について作者による説明が作中にあり、これがカバーと合っている。

 

 微妙に、え!? あのときそういう人っていったっけ……。会話の中に出てくる人物に心当たりがないばかりか、いっこうに思い出せないのにその場が盛り上がる。そういう奇妙な感覚を扱っている物語の中で、第六章の「蜘蛛」は、3Dのように場面がリアルなのだ。ぞわっとする。

 

 たまたま廃墟じみた外観の喫茶店で二人でハヤシライスを食べていたところ、友人の「たまみ」があのことを思い出す。壁に小さな動く点がきっかけだった。蜘蛛。ハエトリグモはじきに姿を消したものの、

「わたしな、蜘蛛に恨まれているねん」

「蜘蛛に?」

「うん。蜘蛛に、配偶者の仇って思われている」

 

 ここから、たまみの高校時代の話になっていく。瀬戸内海の小さな漁港の祖母の家で、失恋の傷心を癒そうとした数日間の出来事だが、それにしても「思われている」という現在形の台詞にインパクトがある。

 

 ふだん目にすることのない、掌を広げたくらいの蜘蛛に遭遇したときの描写がファーブルのように克明で、ぞわっ。書き写そうとしたが、今回はパス。それも一匹じゃない。先頭の大振りなのが移動するのに合わせ、すこしだけ距離を置いて小さいのがあとからついてくる。びっくりした彼女は、

「ばあちゃん、蜘蛛が、めっちゃでっかい蜘蛛……」

「なんっちゃ怖いことない。なんもせんわい」

 と祖母にあしらわれ、そのときは収まった。

 

 文字を追いつつワタシの脳裏に浮かんだのは、母親のことだ。実家は農家で、ワタシがまだ小学生の低学年ぐらいだっか、たまみが目にしたのと同じ掌くらいの蜘蛛を発見しては、泣かんばかりに逃げ回っていた。

「何がこわいの。わるさはせんから」となだめていたのが母だった。小さい蜘蛛だと、そっと手でつかんで外に捨てにいっていた。その夜だけは、とっさに片手で叩きつけいて、瞬時に新聞紙に繰るんでしまっていた。

 

 母親を頼もしいと思った。同時に、罪悪感に囚われもした。読み進むうちに、たまみもまた同じようなことを瀬戸内海の家で体験する。

 

 たまみにしてみれば、たまたたま台所の床にいる例の二匹の蜘蛛を見つけ、居合わせた祖母に報告した。見て、と言った。それだけのつもりが、祖母は新聞紙をつかむと、「こら! こら!」と叩きつける。「違う、」とたまみが声を出したときには、もう遅かった。

 

「ほら、こいでええか」と祖母が孫を振り返る場面には、生前の母の姿が重なった。

 

 本格的にコワイ話が始まるのはここからだ。何度も彼女は、生き残ったほうの、いつも後ろをついてきた蜘蛛と遭遇する。日を追うごとに接近してくる。蜘蛛との距離は縮まってくる。とうとう、ある夜のこと……。ああ、ぞわぞわする。

 

「離婚することになったんも蜘蛛の呪いちゃうか、とまじで思ったもん」

 

 喫茶店でたまみは話す。「怪奇大作戦」の蜘蛛男爵の回みたいにワタシがびびりまくっていると、場面は二人の会話にもどっていた。あのときの二匹がつがいならば、残ったのは夫のほうか妻だったのか。ふたりが言い交わす。大きいのが牡というのが一般的だろうが、そうじゃない組み合わせも考えられる。ここでのそれぞれの捉え方が面白い。

 夫であるか妻であるか。「思われている」と語ってしまう、恨みの感情はどちらの性が深く継続するものなのか。性で分けられるものなのか。答えは二人の考え方の差を表してもいる。それはともかく、相方を殺された蜘蛛の接近の仕方を思うと、もうコワイを突き抜け、凄味を感じ、慄然としてしまう。

 

 みょうなあと後味のする、ミステリーゾーンのような世界である。カバーの雰囲気が作品にマッチしていて、このために書き下ろされた作品?と思いもしたが、さすがにそれはない。先年他界されたフジモトマサルさんの絵だ。

 

 

 

「はじまりへの旅」に、『夜の谷を行く』を重ねてみた。

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 時間があいたので、マット・ロス監督の「はじまりへの旅」という映画を観た。予備知識なしだったけど、すんごく濃い映画だった。
 
 アメリカ北西部の森深くに暮らす、子沢山の一家の物語で、父親のベン(ヴィゴ・モーテンセン)は、1960年代末から70年代はじめの頃には世界中によくいた"怒れる若者"のひとりだったのだろう。いまでもバリバリ、資本主義の世の中は間違っているという考えを深めこそすれ信念はゆるぎない。適度に文明の利器をとりいれながら自給自足の自然生活を営み、他者との交流を極力避けている。

 父親の方針で、子供たちは全員、学校にも行っていない。ランボーをおもわす髭面のベンだが、かなりのインテリで、学校で習うことよりも多くのことを子供たちに授けることができると思い込んでいる。
 
 ある日、一家はやむをえない事情から、ベンの運転するおんぼろのバスに乗って下界に下りる。ファミレスに食事を取ろうとしたときのこと。メニューを見ながら「コーラって?」と子供が問えば、ベンが「毒薬だ」と答える。

 子供たちは興味津々なのだが、結局、食べるものはないと店を出てしまう。
 
 ベンは頑固で、いたってマジな男だ。だからこそ社会とのズレ具合が笑えるのだけど、わからずやの男をバカにしたパロディ映画なのかというとそうではない。
 
 よくいる「元左翼のオッサン」と違い、ベンが偉いのは、あいかわらず信念を実践している人間であること。実地で野生の鹿の狩り方を子供たちに教え、難しい哲学書や文学書を子供に読ませ、どのように理解したのかを言わせる。

 ときに子供があらすじを話しはじめると、「キミがどう考えたのを話さなければ意味がない」と諭す。そうだよな。観客として、同意する。ベンは理想的なパパでもある。状況によっては。
 
 そうなのだ。環境や見るものの視点によって、がらりと印象が変わるというか。「自分の意見」をもて、というベンの教育実践は、真っ白な子供たちに自身の価値観を刷り込もうとしているんじゃないかという印象がなくもない。すくなとも監督は、主人公のベンが考える「信念」とは距離をおいて描こうとしている。

 しかしながら、一見極端ながらも成果は出ていた。ベンの教育方針のおかげで子供たちは、同世代の子供たちと比べると、知識においても、生活能力においても、彼らは何倍も優秀で、とくに長男のボゥドヴァンは、まったく学校に行っていないのにハーバードをはじめ有名大学を受験し、そのすべてから合格通知をもらっていた。これがまた、のちのち父親の逆鱗に触れるのだけど。

「おまえは、なんでこそこそ隠れて受験したりしたんだ。ずっと俺たちに嘘をついていたんだな」

 父親が言う「俺たち」とは、死んだ妻を含んでいる。しかし、長男の受験を応援していたのは、その妻だった。

 ベンの妻は資産家のひとり娘で、彼と結婚するまでは弁護士として働いていた。森で生活する中で彼女は心の病をかかえていったらしい。というのも、彼女が生きた姿で語るシーンが映画の中にはないからだ。だから、彼女が実際、何を考えていたのかは、登場人物たちの証言によるしかない。


 ただ、彼女が生前にベンに残した紙には、自分は仏教者に改心したから火葬にして、骨はトイレで流してほしい。そんなことを書いていた。ベンが子供たちとともに、この遺言を実行しようとするくだりはスリリングで、アメリカ映画らしいアクションのある見せ場でもある。

 ベンとの対比で、この映画で重要な役を占めるのは、妻の父親である。熱心なキリスト教信者である義父は、娘の死はベンが原因だと立腹している。電話でベンが葬儀に参列したいというと、「来なくていい、来たら警察を呼ぶぞ」と脅すのだ。
 
 なぜ、義父はそこまでベンに怒りを向けるのか? 

 ベンが義父と対面するまでは、トランプみたいな男をイメージしていた。実際、ベンは、子供たちと教会に踏み込み、葬儀を中断させ、いっとき教会は騒動となる。
 
 教会の葬儀に集まった人たち、大多数の世間からすると、ベンの一家は非常識きわまりない「おかしな一家」である。しかし、クレージーとは突き放せないものがベンたちにはある。ベンのラディカルな「信念」や「正義」そのものは、過剰ではあれ、決して誤りだともいえないものだからだ。

 映画を観ながら、「父親の教育になんら疑問を抱くことのない子供たち」の姿から思い浮かんだのは、45年昔、厳冬の山岳ベースに集まった若者たちのことだ。最近読んだからということもあるが、桐野夏生の『夜の谷を行く』が重なった。「連合赤軍事件」に関わった元受刑者の女性の「その後」を描いた長編小説だ。


 1972年の軽井沢あさま山荘の銃撃戦後に、14人の「同志」を殺害していたことが発覚した「連合赤軍事件」。桐野夏生が小説の中でテーマのひとつとしたのは、当時、山に入った女性たちの中に、看護学生や保育士が多かったこと。なぜ、妊婦までもが「軍事訓練」を目的としていたキャンプに混じっていたのか。

 背後には、忘れ去られた「ある計画」があったとの、桐野さんが取材した関係者からの証言が発端になっている。

 連合赤軍は、武装闘争を掲げて超過激化した赤軍派と革命左派の二つの新左翼セクトが警察に追い詰められる中で合体し、長野から群馬にかけた山の中に拠点を置こうとした。強奪した銃を用い「共同軍事訓練」を行うなどしていたことから、山に入った若者たち全員が、当然のごとく「兵士」となる意思をもって参加していた。そう考えられてきたが、実はそうではなかったというのだ。

 少なくとも女性メンバーが数多かった革命左派には、「山で子供を生み育てる」という別の計画があった。だから、妊婦や赤ん坊を抱えた夫婦が参加し、次々と「総括」という名のリンチによって、命を奪われた。「おまえの、その態度は兵士にふさわしくない。ソウカツしろ」という理不尽な指弾を受けて。
 
 ほんのすこしでも冷静な視点に立つことができたら、妊婦に「兵士の覚悟」を問うなんて、なんてバカバカしい。「やってられねぇよ」と口々に言い返せていたなら、あんなにも凄惨なことにはならなかったにちがいない。もちろん、山の閉鎖された独特な環境では、それは無理な話だったのだろうけど。

 伝え聞く彼らの軍事訓練の実態。あまりの稚拙さ観念先行のそれと比べると、映画の中で、ベンが子供たちに施す「サバイバル教育」は段違いに本格的だ。ランボーなみに、たったひとりで生きるための術を体得させるべく、非情ながら理路に合致している。それひとつとってしても、総括を連呼した指導者たちが、いかに頭でっかちの人間だったかがわかる。行き当たりバッタリの行動であったかも。

 話を戻す。ベンの妻は、森で子育てをするうち、社会を遮断した生活に疑問を持ち始めていた。「森を出て、外の世界を知りたい」と相談した長男の希望を応援しようとしていたらしい。

 長男のボゥドヴァンは頭脳も優秀な上に、身体能力も高く、スポーツをさせたら、どんな競技でもトップクラスに入るにちがいない。おまけにイケメンだ。

 町に下りていったとき、女子が彼にちょっかいをかけてくる。が、ボゥドヴァンの気持ちがたかぶったとき、女子たちは興ざめし、冷ややかに彼から離れていく。話題はまるで通じないし、キスした直後に「結婚」を切り出されたら、そりゃ色気プンプンの女子は戸惑うわな。そもそも、女子の目をまともに見ることすらできないウブというか免疫がないのだ。

 そうそう、ベン一家が下界へ降りるのは、都会で療養中だった妻が自殺したという知らせを受け、葬儀に参加するためだった。義父から「葬儀の場に現れたら警察を呼ぶ」とまで突き放されるベンに同情し、そこまで言うなんてひどいなぁと思ったが、妻の両親が登場してからは、その印象も変わっていく。

 義父はマッチョながらも理性的で、ベンのようには感情的に行動を起こしたりはしない。この両親に育てられたからこそ、妻は理知的にベンを理解しようとしていったのだろうと納得もできた。

 資本主義社会のシステムに懐疑的で、森の中で、一家だけで暮らす子供たちの将来を考えた場合、本当にこのままでいいのだろうか。迷いを抱いた妻が、夫に話しても、ベンはまったく耳を傾けようとしなかったのだろう。
 
 森の中で、妻が相談する相手もなく悩みを深めていったらしい事情が、下界に降りたベンが「社会」とぶつかりあうごとに、また子供たちが示す態度などから徐々に見えてくる。そうした問題点が浮き彫りになっていく展開は、難題を抱えた家族もの映画としても秀逸だ。
 
 いったん思想そのもの善悪の問題をヌキにしてしまうと、ベンの独特なスパルタ教育は、子供たちをボクシングのチャンピオンに育てあげたナニワのヤンキーなオトッツアンに似ている。

 映画のラストは、こういうエンディングしかないわな、というものだ。と、ともにいささか平凡で肩透かしなものに思われた。じゃ、どういう着地があるのかと問われたら答えようがないのだが。同時に、あの山で、もしもオシメがひらめくような生活が展開していったなら、「その後」がどうなっていたのだろうかと考えもした。

 

夜の谷を行く

夜の谷を行く

 

 

 

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/