わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

津村記久子『浮遊霊ブラジル』の中に出てくる、「オモ族」の写真集を見る男の子の話が面白い。

一日のご褒美に「オモ族」の写真集を見る男の子の話が面白い。

 

f:id:waniwanio:20161222152834j:plain

津村記久子『浮遊霊ブラジル』(文藝春秋)

津村記久子の書く小説といえば職場小説の印象があるのが、最新刊の『浮遊霊ブラジル』は、死んじゃったお爺さんが、生前に行きたかった海外旅行を幽霊になって果たそうとする表題作をはじめ、これまでの作品とちがってかなり軽妙で、しょゅっちゅうダベっていた女友達ふたりが地獄に落ちてからも交友関係を続けていく「地獄」という短編なんぞは、脇役の鬼たちが役所勤めの公務員キャラクターで、たとえばある鬼は妻の浮気に悩んだりして主人公が悩み相談に応じるなど、桂米朝の大ネタ「地獄八景亡者戯」を思い浮かんだりして面白い。


 ぜんぶで八編あるなかで、とくにワタシが好きなのは「個性」という短編だ。
 就職活動を控えたある大学3年生たちの話で、「秋吉君」という男子は、まわりのひとには見えているのに彼ひとりだけが「見えていない」という、特殊な視野障害の病気をもった若者という設定で、そういう病気は実際にはないのだろうが、ありそうに思わせるのが津村さんの特色でもある。

 主人公の「私」は小説の中では、観察者的な立場の女子大生で、秋吉君のことを好きになった女子の「板東さん」がある頃を境にして、「ドクロ侍(骸骨が鎧を着て、刀を両手に構えている)」がプリントされたパーカーなんかを着て学校にやってくるようになり、もともと無口でジミなキャラなのにどうして? と思うところから始まる。

 秋吉君は、わが道をゆくというか、いつもネルソン・マンデラとかドストエフスキーとかカミツキガメとかヤドクガエルカルロス・バルデラマなどなど、ハデなTシャツを好んで着てくる男子で、主人公は「ドクロ侍」は板東さんが着るよりも秋吉君が着たほうがふさわしいだろうに、とか思いながら見ている。ちなみに「カルロス・バルデラマ」が気になったので、ネット検索をしてみたら、すごくインパクトのあるサッカー選手だった。

 板東さんは、その後もアロハを着たりと、目立ち方がどんどんエスカレートしてゆく。もともと整った顔立ちの美形で、「私」は彼女のことをドクロ侍なんか着るタイプの人じゃないのにと思い、何が彼女の身に起こったのかと心配している。ある日のこと、とうとう板東さんは、
〈大阪の商店街のおばちゃんが身に着けているような、トラが正面に向かって口を開けているTシャツを着てきた〉。


 いっぽうの秋吉君だが、「トラー」といって板東さんのTシャツを指差してはしゃいでいる。その反応に板東さんは、ぶすっ、としてその場からいなくなる。


「トラが行っちゃったよ」と残念がる秋吉君。
「トラじゃないよ、板東さんだよ」と主人公が突っ込むと、
「え、板東さんなのか」という、やりとりを交わす。

 秋吉君には、トラのシャツは見えても板東さんの姿は見えておらず、坂東さんは彼の目にとまりたくてヘンな格好をエスカレートしていくというスジで、奇妙な話なんだけど、話が進んでいくにつれ、タイトルの「個性」とはどういうものかということのハナシになっていく。つまりは、アイデンティティのモンダイというか、ボク(わたし)って何?の話である。さらに踏み込んでいうなら、いびつなモノのなかにこそ「個性」は潜んでいるということを指し示している。

「いるっていうことはなかなかわからないのに、いないっていうことはすぐにわかるの?」

 登校してこなくなった板東さんについて、秋吉君から聞かれた主人公が問い返すと、秋吉君が申し訳なさそうにうなずく場面が印象的だ。

 このハナシは、まだ恋人でもないし、友達にすらなれていない二人が、相手を認識していこうとする途上の出来事を綴っていて、実際二人が会話してみたらどうなるのかは未知数なままに、ラスト近くで、秋吉君に認識してもらいたい板東さんはあることをする。おそらく彼女にしてみたら、キヨミズのブタイから飛び降りるような心境だったにちがいない。恋愛もののようで必ずしもそうなってはいないこのラストがすごくいい!!

 津村さんにこの本に関してインタビューしたときに、
「なんで同じ顔に見える美男美女を頑張って、見分けてあげないといけないのか」と話されていたのが面白かった。着想の発端は、秋吉君ほどではないにしても、津村さん自身が整った顔のひとの顔が識別できないことからきているらしい。

 作中に、秋吉君が気に入っている写真集というのがあって、それはアフリカの「オモ族」の人たちを撮影したもので、顔にカラフルなペイントをしたものらしく、津村さんも好きなのだという。気になったので書店で探してみた。

 秋吉君の持っているものと同じかどうかわからないが、その一冊の写真集がいま欲しくなっている。「顔とかに色を塗りたくっている、あんなんでしょう」くらいに、見るまでは津村さんも秋吉君も妙なものが好きななんだぁと思っていたが、カラフルに顔に化粧していて、とってもカワイイのだ。いやなことがあっても眺めていると、もやもやが晴れるかなぁーとか思ったり。あと一月しても、それでもほしいと思うようなら買ってみようと思っている。

 この話が好きなのは、ワタシもひとの顔がなかなか覚えられないことが関係しているかもしれない。声はわりと記憶するんだけど、仕事相手で何度会っても顔を覚えられないなんてことはしょっちゅうで、だからなるべく会社を訪ねていくようにしている。

f:id:waniwanio:20161222152928j:plain

週刊朝日」2016.12/16号

映画「淵に立つ」(深田晃司監督)のあるキャラクターについて考えてみた

映画「淵に立つ」(深田晃司監督)を観て…

 

ポスター画像

映画『淵に立つ』公式サイト


※映画のネタバレを含んでいます

 日が経つにつれ、観終わった直後の違和感はだんだんと薄れ、浅野忠信演じるあの男は、観た人たちのコメントにあるように「得体の知れないモンスター」だったということで、あれはあれでよかったのかと思いもするようになりかけている。

 ただ、当初の違和感はまだそれなりにあって、10年ちかく刑務所に入っていたのは男が強盗をはたらいて人を殺めたということではなく、彼自身が固く信じる何らかの思想(それが政治的なものなのか、カルト宗教的なものなのかは不明。映画の中では何一つ明かされていない)にもとづき、ひとりの人間(誰かは不明)を殺害し、裁判でもそれを認めたうえで服役したという事実。

 刑期を終えて出所した彼は、一月ほどしてふらっと旧友が営む工場に姿を現す。零細工場を経営する友人を演じるのは古舘寛治で、ふたりには家族にも隠している深いつながりがあるらしい。それが何かはわからないが、ふたりの挙動から「ただの友人」ではないことはわかる。

 男はいつも白いワイシャツを着用。居候になった後も、友人家族らと山に行楽に出かけて行く際ですら白いワイシャツのボタンをきちんととめ、堅苦しいほどにマジメ人間に映る。そういうマジメぶりが観るひとによっては、何らかの意図を秘めたものというか、サイコな人格を想像させることにもつながっていく。口数がすくないのもそれを強くしている。

 白いシャツに象徴される振る舞いは、男が周囲を欺くための「演技」なのか否か。演技だとするならば、彼は確信的なモンスターということになる。ならば、ホラーがかったスリラーとして映画を見通せばいいわけだ。


 しかしながらワタシの目には、浅野忠信演じる男の中に狂気めいたものを感じられなかったのだ。つまりサイコな人と思えない。

「淵に立つ」の物語をおおまかにいうなら、こうだ。小学生の女の子(使い込んだ赤いランドセルが印象深い)のいる夫婦のもとに突然、浅野忠信が現れ、その日から居候になる。父親の工場を継いだ古舘寛治とは昔とくべつな交友関係にあり、浅野に対して重大な借りがあるらしい。 

 妻はそうしたことは知らず、怪訝に思うものの夫は詳しくは説明しない。来訪される一家の側が円満なわけではないというのがなんとなく伝わってくる。重大な借りが、男の服役に関わることらしいのは推察されるが、それが何か、ポイントが伏せられたままに話は進んでいく。

 男を交えた古舘家の食卓風景が劇中に頻出するが、食事中、夫はひとり黙々と箸をすすめ、会話もすくない。とはいえ、円満ではない夫婦などめずらしくもない。ある意味どこにでもある、うまくいっていない家庭のひとつという印象だ。食卓の風景といえば森田芳光の「家族ゲーム」を思い浮かべたりもした。

 男の来訪は、いずれ自然崩壊していったかもしれない、つり橋のように均衡のとれていた一家が壊れていくのを早めただけのことだともいえる。 

「謎の来訪者」によって、平穏に見えていた夫婦や家庭がおかしくなるというのは古今東西よくある映画の筋でもあり、驚くほどのことではないが、この「淵に立つ」に感じる違和感(強くひきつけられる要素でもある)は、謎めかされた浅野忠信の実態、彼が何者なのかが最後まで掴みきれなかったことだ。

 男が、工場の一家の娘に慕われ、ピアノを教えてやる場面がある。彼は子供の頃に習っていたと言い、ほかにも博識な言動、穏やかな語り口調から育った環境は中流以上で高学歴のインテリであることがわかる。とともに娘と父親の関係から、ワタシは私的な事柄ながら、実家での父と兄を思い出していた。

 子供のころには我が家の事情を理解していなかったのだが、ワタシの父は15歳違いの兄にとっては「叔父」にあたり、兄の「実父」が戦死したのち母が家に残っていた「夫の弟」と戦後に再婚、ワタシが生まれた。そういう事情を知らない子供のころのワタシは、日頃父親らしくない父を疎ましく感じる一方で、面倒見のいい兄にまとまわりついていた。
 父からすれば、なつかない息子を見ていて面白くなかったのだろうなと思う。というか、父は何を考えているのかわからないひとだった。劇中の古舘寛治が口数の少ないのも、なんとくわが父に似ている。娘が男と楽しそうにしているのを古舘が傍観しているのも、だから個人的にはとても印象深い。そして、夫に不満を感じていた妻も娘以上に男に惹かれてゆくのだ。

 よくある物語ならば、外部から割り込んできた「謎の男」が妻や子供を奪っていく。子供を巻き込んだ三角関係の歪な展開になるのだろうが、刑務所でも模範囚だったにちがいない男は、自分に好意を抱く妻にある日、肉体関係を迫り、彼女がすんでのところで拒絶するや、抑えがたい情欲からか、少女に「何か」をしてしまう。

 中盤に突然起きる「何か」は劇中では伏せられたまま、映画は8年後へと飛ぶ。何か、とは。スクリーンで観客が目にするのは、娘を探しにいった夫が発見したそのとき、公園の片隅に仰向けになって倒れた少女の後頭部のあたりに血溜りが広がっていく。その場に立ち尽くしていた浅野忠信が逃げだし、古舘寛治が追うものの姿を見失ってしまう。


 そこまでが映画の前半で、後半の8年後の工場の一家に焦点をあてたドラマ展開については、ここでは省略する。消息を絶った浅野忠信が再び登場するのは、ラスト付近のワンシーンに限られる。それも現実ではなく、ある展開のなかでの幻惑的なシーンである。悪魔的な笑みを一瞬浮かべる男を現実のピースのひとつとしてつなげるなら、彼は最初から一家を壊すためにやってきた災厄的なモンスターだったという解釈が成立しやすい。

 しかし、しかしである。それはあくまで「被害者」となる一家の視点によるものであって、男が果たして何を意図してこの一家のもとに現れたのか。核心部分は、男が服役した事件ともども、それは監督の意図らしく「藪の中」のままに映画は幕を閉じてゆく。少女と男との間にあの日何があったのかも。

 つまり、ふたつの謎を秘めたままエンドロールを迎える。もちろん「藪の中」に置かれたままに終わる映画のスタイルはあっていい。そういう映画はむしろワタシの好みでもある。「観客の想像を広げておきたい」という演出意図や効果についても承服できる。

 たまたまワタシが観た渋谷のアップリンクでの上映後、監督と美術スタッフのトークショーがあり、Q&Aで、劇中に「総括」という言葉が出てくることについての質問に対して深田監督は、批評の中に「連合赤軍事件を連想した」というものがあったと話されていた。

 浅野忠信を含めた一家がピクニックに行き、その際に川べりに並んで四人が寝転がっている。ポスターなどにも使われている俯瞰したシーンが、リンチを加えられ殺害された仲間の埋葬写真を連想させるというのだ。そこから浅野忠信の演じる男が、そうした過激派活動家グループの一員だった可能性を観客が読み取る可能性について、監督は肯定も否定もしないという趣旨のことを語っていた。

「総括」という言葉も劇中にたった一回出てくるだけである。浅野忠信の服役前に、彼の子供を産んだシングルマザーの女性が、子供を厳しく育てたエピソードとして「いつも母は、学校から帰ったらその日の総括をさせるんです」と成長した息子に回想させている。

 浅野が、古舘の妻に喫茶店で打ち明ける場面も印象的だ。刑務所に入ったのは人を殺したからで、かつての自分は「正義」を過信し、ひとの意見を聞かず、人を殺めることも信念によって許されると考える。誤りだったとの懺悔のようにして、そういう人間だったと語る場面がある。

「総括」や「正義」という言葉、くわえて浅野忠信の礼儀正しい生活態度などからワタシの脳裏に浮かんだものは、たしかに連合赤軍内ゲバを繰り返していた政治セクトであり、その後のオウム教団である。時代設定や浅野の年齢、眼に鮮やかな白いシャツ姿を加味するなら、よりオウムのほうを印象付けられた。そして話はフリダシに戻るのが、彼が着用する目映いばかりの白いシャツが、ワタシにとってはこの映画に関する違和感の理由でもある。

 信奉する思想原理に拠って立ち、「正義」の為にはひとを殺めることすらためらいはしない。一度そう確信、思想した人間が、いっときの情欲で子供を手にかけたりするものだろうか。

 それでは己れの人生の否定である。

 瞬時の男の変化を象徴するものとして、工場の白い作業着をはだけ、男は真っ赤なTシャツを見せる。狂気に走ったという劇的シグナルなのだろうが、これがどうもワタシにはしっくりこなかった。

 白から赤への反転。そんなに簡単に人はひっくり返るものだろうか。

 それとも男の「白」は計画された偽りで、本性の「赤」が露になったというだけのことなのか。だとするなら、劇中でみせる様々な懺悔すべては偽りということなのか…。

 来訪者を受け入れた古舘寛治には、誰にも口にすることのできない罪の意識がある。男が殺人を犯したその場に、彼もいたのだという。「共犯者」の存在を、男は裁判でもクチを割らずに黙り通した。古舘が旧友を受け入れた事情が劇中で匂わすかたちで明かされる。ピクニックに行ったときに古舘と浅野が二人きりになる場面だ。

 喫茶店で妻と浅野が会っていたと知り「(妻に)どこまで話したのか」と問う古舘に、浅野は「おまえのことなんかしゃべっちゃいないよ」と声を荒げる。「オレがクソみたいな日を送っているときに、オマエは毎日セックスして子供まで作っていたんだな」と攻撃的になる。それまで見せていた表情とはまるで違っている。この台詞が後の少女の事件と絡まり、彼を怪物的なキャラクターとして、最初からある意図をもって近づいてきた男であるかのように思わせる。

 だが、繰り返すが、ワタシには男がそういう恨みを腹に抱えた人間とは思えないのだ。ただ行き先がなく、なりゆきで旧友のもとに転がりこんだだけだったのではなかった。怒りは、友人の卑屈な態度に、かつての仲間に失望するがゆえの罵倒ではなかったのかと。

「招かれざる客人」が一家を崩壊させていく全体の筋はよく出来ているし、この映画そのものは秀作だと考えもするのだが、ただ一点、浅野忠信が忽然と消息を絶つあの一瞬と、服役した「殺人事件」とのつながりが、どうにも合点がいかずにいる。一個人としての人格の一貫性を感じられないのだ。ただ、日が経つにつれ、当初の強烈な違和感はやわらぎ、あれはあれで映画としてありなのかもしれないと思いつつもある。

 確信的な「思想犯」と、欲情に負けた「破廉恥男」とは、一個の人格、個の実人生として相容れなのではないか。そう思いはするもの、それ自体が人に対する幻想というか「過信」なのかもしれない。世の中にはどんなことも起きるし、ありえないことは一つもない。現実に、厳格である宗教者や「聖人」が破廉恥な罪を犯してニュースになることもある。だから、あの男が思想犯でありモンスターというのも可能性としてはありうるのかもしれないと。

 もやもやとした気持ちを晴らしたく、深田監督の前作で「淵に立つ」と同じ構造をもつ過去作品「歓待」の特集上映会があるというので観にいった。
「歓待」では被害者である古舘寛治が、印刷工場を営む家に入り込み、かき乱す「侵入者」を演じている。立場を逆転させていた。

 これがすごくコミカルで、男は平気でウソをつき、ひとを罠に陥れる。ひょうひょうとしていた「悪人」ぶりなのだが、視点によっては善意の「救済者」とも映り、すさまじい「破壊者」でもある。本当のところ彼が何者なのか不明なままに姿を消してしまうということでは「淵に立つ」と類似している。そして古舘寛治のあまりの快演ぶりに、この男の正体を問い詰めてもさして意味はないと思えたのだった。

 つまり、監督の狙いは、かき乱される側にテーマは存在し、侵入してくる男はきっかけでしかない。とするならば、あの浅野忠信演じる「謎の男」もまた「正義」はオプションで、ただ「謎の男」としてそこに存在してあればよいと監督は考えたのならば、劇中の個人の一貫性に拘泥しても、そこに解はなくなる、そういうことなのか……。(もしかしたら、つづくかも)

 

fuchi-movie.com

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/