わにわに

朝山実が、読んだ本のことなど

部屋もの本③ 変な間取りのアパートと団地と下宿屋と


部屋もの本

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  転居二年目になるがキッチンに立つたび疑問に思うのは、この部屋の換気扇のスイッチは何故、手の届くところにないのだろうか? 先代の住人はどうしていたのか?
 賃貸マンションのこの部屋が不思議なのは、ガスレンジを置くスペースの奥にいろいろモノを置けそうな空スペースがあり、その奥まった天井近くに換気扇が付けられている。現在はトースターを置いてあるが、けっこう油がこびりつくので、置くものは限られてくる。

換気扇のサイドに、引っ張る式の垂れたヒモがついているのだが、これが手を伸ばしてようやく掴めるかどうかの離れた位置にあり、最初は踏み台を使い、いまはヒモを延長して使っている。

 ワタシは身長160センチだが、なんだか不便。見た目も、ヒモが垂れている感じは不格好だし。これは設計の失敗に思える。そう言えば、洗面台もなかったりする。入居の際は気にならなかったことだけど。もしかしたら、ここは住居として建てられた物件ではなかったのかも。

 事情を大家さんに聞けばいいんだけど、顔を合わせたときには忘れてしまっている。そういう「なんで?」は、どんな賃貸こ部屋には一つや二つはあるのではないだろうか。「何で?」の視点を起点にしている小説といえば、長嶋有『三の隣は五号室』(中央公論新社)や能町みね子『お家賃ですけど』(文春文庫)だ。

 たとえば、能町さんが木造アパートの二階の一室を間借りしていた頃を綴った『お家賃ですけど』には、台所の部屋に、すりガラスのはまった「謎の扉」というのがあり、不用意に開けると外に落下する。「危険」なのだが、そもそもなぜこの場所にそういう扉があるのか。鍵も付いてないため、外からはしごをかければ侵入可能だという。なんなんだヘンだぞ、と思いつつ真相が「わからない」まま住みつづけていたというあたりが面白い。
 
 ところでワタシは近ごろアパートやマンション、下宿、団地など形式に関わらず、借り住まいが舞台となる作品を「部屋もの本」と呼ぶことにしている。
「部屋もの」で目がいくのは、まず間取りや造り。そして前の住人が残していったモノたちだ。長嶋有の『三の隣は五号室』だと、手作りの雑巾、ガスの配管のところについたゴムホースの切れ端、長いアンテナの引込み線など。

 1960年代に建てられた「第一藤岡荘」という木造モルタル全5室のアパートが舞台。というか二階の、2K風呂トイレ付の五号室が「主人公」だといってもいい。
 この部屋に暮らした歴代の住人たちが、暮らした順に話をかさねていく小説構成ではないのがミソ。ゴムホースや引き込み線に読者の目が誘導され、そのモノに関わる住人たちがその都度登場する。

 第一話の冒頭に登場する「三輪密人(みつわ・みつと)」のように、最後までどんな職業だったのかわからないまま、突然射殺されてしまう謎の男はいるものの、彼以外の住人たちはごくふつうに単身赴任中のサラリーマンだったり、女子学生だったり、新婚夫婦だったりする。いわゆる「市井の人」たちだ。
 作者の遊び心で、住人たちの名前には「五十嵐五郎」「七瀬奈々」など数字が混ざる。そして部屋の間取りが、よくよく見るとちょっと変わっていたりする。間取りのそのヘンなところをどのように生かしたかで、住人それぞれの個性が覗けたりする。
 
 もう一年半くらい前に読んだものだから詳細なところはおぼろげだが、印象深く記憶しているのは、前の住人が置き忘れていった雑巾を、後の入居者が大事に使うところだ。

 もうひとつは、ガスの元栓の先にあるゴムホースの切れ端。後の入居者が外そうとしても外すれず、どうしてこんな……と前の住人についてあれこれ想像する。
 考え込むといえば、ためた浴槽の湯の水位が微妙に下がっていく。あまりに微妙な加減でお湯が減っていくものだから、どこが悪いのか原因がわからず困惑するという「事件」がある。
 前の入居者に遡ることで、ようやく原因は掴めるのだが、わからない間は、もやっとする。なるほどそういうことか。これはわからないわ、というくらいの出来事で、これは作者の実体験だろうか、そうでもなきゃこういうのはなかなか思いつかないよというリアルさが面白い。

 で雑巾だが、第二話に出てくる「六原睦郎と豊子」の高齢夫妻。豊子さんは入院中、夫にメモを託していた。お歳暮の届け先リストから掃除道具の場所など、生活に関する細々したもの。

 入院前に作った雑巾は結果的に妻の遺品となるのだが、息子たちが残された父親の引越しの手伝いにやってきたとき、掃除に使用する。そのうちの一枚をバケツのふちにかけたままシンクの下に忘れてしまい、清掃業者もそのままにした。

 次の住人である七瀬奈々がこれを発見し、丁寧な縫製であることから使いはじめる。この場面がとてもいい。たかが雑巾なのだが。七瀬は、郵便受けのところに貼られていたシールから「六原さんの雑巾」と呼ぶ。雑巾に名前をつけるあたり、じわっ、とくる。

 半世紀の間に「五号室」に暮らしたのは、13家族。それぞれがどのように住まったのか。「個性」というのは決して大きな差異ではなく、雑巾に対する七瀬のように、ささやかな日常の対処の集積によって築き上げられるものだという作者の示唆なのだろうか。

 雑巾を残していった六原さん夫婦が暮らしていた頃のところを少し読み直してみた。豊子さんがミシンの音に気を遣いながら、部屋で雑巾を縫う場面がいい。
 さらにイイのは、P.193からの「六原豊子と嘘の話」という短い逸話だ。
 余命宣告を受けたことを妻に知らせるかどうか。夫は妻に嘘をついたまま、病院まで連れて行こうとする。

 その途中、夫は診察券を忘れたことに気づき、家に戻る。豊子さんはコンビニに入って待っている。なかなか、夫は現れない。待ちくたびれた豊子さんは、家に引き返す。そこで、夫が嗚咽しているのを目にした豊子さんは……。
 その後について記すのは、やめておこう。たぶん多くのひとがことの流れとしてそうするだろうことを、豊子さんも夫もする。すばらしいのは作者がこのシーンの意味付けをしてないことだ。とても幸せな瞬間であり、とてもかなしい場面だ。

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👆『三の隣は五号室」(中央公論新社)

 
 しかし、先にも書いたが、そういうふうにしてピンポイントで「ひと」のドラマを読みすすむような書き方をされているわけではないんだよなぁ、この小説は。
 主人公は「205号室」という部屋で、歴代の住人たちは、部屋にとっての「記憶」の一部というか、交換してシンクの引き出しに仕舞われた蛇口や、付け替えられた浴槽の、工夫してつけられたアンテナの引込み線などの日用品をきっかけに、そのモノの説明に住人たちが舞台に呼びだされ、「じつは、それは」と語りだす構造になっている。そこはとても斬新だ。

 モノが起点になって、ひとに焦点が当たる。逆ではない。
 だから、住人の誰かひとりについて知ろうとすると、ある章を読むのではなく、一冊まるごとイチから全部を読み直す必要がある。もうすこしして、全部を読み直すのはほとんど話こ全容を忘れてしまったときにしようと決めた。初読のときも再読したときも、見過ごしていた「発見」があるにちがいない。

 住まい方といえば、団地を舞台にした、石山さやかの連作マンガ『サザンウィンドウ・サザンドア』(祥伝社)が面白いのは「6部屋目」のこんなシーンだ。
 webの仕事をしている単身生活の「伊澤智彦」はいつも深夜まで働いている。ある日、終電で寝過ごし、歩いて帰宅する。隣の家族構成などまったく彼は知らない。隣の部屋の前を通るたびに「ふんふん」と鼻をひくひくさせる。
 風呂の匂いがする。
 いつも帰宅のたびに匂うので、大家族で順番に入っているのだろうと想像するのだが、電車を乗り過ごしたその日、ようやく明け方に団地にたどり着くと、匂いがする。クタクタになった彼はこんな時間に!?と思うのだが、その後の彼の反応が面白い。

 

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『サザンウィンドウ・サザンドア』(祥伝社)

 巨大団地を舞台にした話だけに、隣人との疎遠な現代感覚が描き出されてはいるのだが、それでもほんのちょっとのことで人は人とつながることは可能だという合図のようにも思える。

 実際こんなふうにして隣人との付き合いができたという逸話がこの中には幾つもある。でも、伊澤さんの話がイイのは、まだ何も起きていない「匂いを嗅ぐ」ところで終わっていることだ。

 

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 もうひとつ『サザンウィンドウ・サザンドア』で好きなのは、若者と老人の組み合わせのドラマが多いこと。仲間とストリートダンスの練習をした帰りに男の子が、和服で踊りの稽古をしているお婆ちゃんたちにビデオ撮影を頼まれ、「ババアは」と舌打ちしながら引き受ける話。あるいは、野良猫に餌を与えている老婆に「魔女?」って勝手にネーミングしちゃった「ちとせ」という中学生の女の子の話。
 魔女ばあさんは独居老人で「へんくつ」で「かわいそうな人」にも見えるんだけど、野良ネコを介して、ちとせは距離を縮めていく。「ちとせ」と「魔女ばあさん」の顔つきがイイ。しかも、伊澤さんの話に似て、これまた意表をついた終わり方をする。プツン。と途切れる感覚は「その後」を逆にいろいろ想像させ、技法を超えた深みを感じる。

 

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 老人が出てくる部屋ものでいうと、先にあげた能町みね子の『お家賃ですけど』もそうだ。
 神楽坂の築40年の下宿屋アパートに、22歳の能町さんが間借りしていた当時のことを綴ったエッセイ集で、ところどころに挟みこまれている写真がイイ。
 一年でアパートを出たものの、二年後に出戻ってくる。暮らしたのは通算で三年になるのかな。最初は男性だったのが、再入居の際は性別が違っていた。大家のおばあさんに、その事情をどう伝えようかとためらう場面だとか、日常の中に起きる起伏の描写や捉え方に引き込まれる。
 だけど、いちばんインパクトがあるのはこの部屋に早く戻りたいと思うところ。能町さんが体調を崩して入院したとき、相部屋となった六人のおばあさんたちと過ごした時間だ。
 まわりは、歩けない、ちょっとボケた、おばあちゃんたち。たとえばその中のひとり、中原さんは「また明日くるからね」と息子さんが帰ったあと、息子さんを探す。
「ひとりじゃ、おしっこもできない」と訴える。
 何度ナースコールのボタンの押し方を教えても、「かんごふさん?」と呼び声をあげる。毎日それを繰り返す。
 たいへんだなぁ。と思いながら読んでいたのだが、能町さんは「とてもかわいい!!」という。

〈これだけ頼れる息子さんを育てた中原さんはきっといいお母さんだったんだろうと温かい想像をしながら眠りにつく。〉

 入院当初は端のベッドから聴こえる「痛い! もう死なせて」という大声にぐったりしていたのが、だんだんその人たちのことが識別でき、事情もわかってくるにつれ、捉え方が変わっていく。
 なるほど、能町さんの眼を通し、そういうふうな見方もあるのかという驚きとともに、おばあちゃんたちを「かわいい」とする視点は、日々のなかでも何かしらの動力になるかもしれない。懐古ではなく、ささやかながら前向きなものを感じるのはそうした点だったりする。

 

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『お家賃ですけど』(文春文庫)

部屋もの本①☞ココ
部屋もの本❷☞ココ

ノワールはこうでなきゃな。

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『嘘 Love Lies』村山由佳(新潮社)は、第六章がすごい。

「作家生活25年、新たな到達点となる哀切のノワール」とオビに謳った、村山由佳の長編小説。500頁超えだ。

 25年かぁ、と購入。分厚いのは苦手なんだけど。1993年に『天使の卵 エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞したときにインタビューしたのをよく覚えている。
 いまはなき「週刊宝石」に本のレストランという読書欄があり(お色グラビアが売りなのに読書頁が充実していた)、ワタシがそのフロント頁「書斎拝見」のライターを請け負って間もないころで、もともと本を読んだりしない人間だったので、行き掛かりで始めたものの毎週カメラマンと作家さんの仕事場を訪問しては作家さんをインタビューする仕事にアップアップしていた。
 村山さんは当時、授賞を機に千葉の鴨川に転居する準備をしていた。電車を乗り継いで訪れた、房総の高台。まだ建設途中のログハウスはがらんとしていた。


「どうするんですか?」屈強なカメラマンが、低い声で聞いてくる。「書斎拝見」になんないでしょう?という。
 何もない、とは聞いていたけど、引越しのダンボールとかもない。ホントに何もないね。困ったね……。
 チッ。
 背後で、かすかな舌打ち。すいません。と言っちゃうと、なめられそうなので、
「まあまあ。ここはコバヤシさんの腕で」と相方を持ち上げる。
「ゼロはゼロ。どうにもなりませんよ」
 明らかに不機嫌だわ。
 黒いボディのカメラ。戦場ジープのように黒光りし、ところどころにぶつけたキズがある。これでブン殴られたら、イタイだろうな。ていうより死ぬな。
 リビングとなる予定のぐるりと見渡し、カメラマンが笑みを。「じゃ、ムラヤマさん。ここで寝そべっていただけますか。小説の構想をしている、ふうな感じでお願いします」
 新人作家さんに対しての口調はいたって穏やかながら、相方の有無を言わせぬ圧しだ。


 ごろん。「こんな感じですか」とまだ新人だったころの村山さん。当時の記事のストックを掘り返したら誌面が見つかった。
 床暖房のCMみたいにして寝っころがっている。笑っている。少々困ったふうにも見える。たしか、背後に当時のダンナさんが心配げに立っておられたはずだ。その作家さんが後に直木賞を受賞するとは思いもしなかった。その欄で新人作家さんを取材するのは異例で、たぶん新人だと読むのは一冊ですむよねというふとめばえたサボリ心がそうさせたんじゃなかったか。本は眺めるのは好きだが読むのは苦手。いまもだけど。ゼッタイこの作家さんは化けますよ、予感がとかなんとか上のひとにフイた気がする。

 その房総半島を出て、二度の離婚を経験され、人生いろいろあって、いまは軽井沢で猫と幼なじみと事実婚暮らしをされているそうだけど、不思議に思うのは予感どおりに賞をあれこれ取ってもインタビューとかで会う度、ごろん、としていた当時の物腰と変わらないこと。記事の写真を見て、さすがにもういまだとこれはお願いできないだろうけど。

 当時年かさだけはベテラン記者のイキながら実は転職したてのチビでオドオドしているワタシと、パリッとした黒のスーツでカメラが凶器に映るくらいデカイガタイのカメラマン。凸凹コンビで、書斎に入る際には、取材相手の作家さんが怪訝な顔になる。見えんわな、ふたりともカメラマンにも記者にも。
 そのカメラマンと先日20年ぶりくらいに銀座でバッタリ会った。いまは宝石を扱っているとかで、前にも増して高級なスーツに身を包んでいた。
「まだ、こっちのほう、やってんですか?」と筆をもつ仕草をされたので、「ほかにないからね」と答えたけど。にやにや笑い返された。

 

 さて。『嘘 Love Lies』だ。
 男女二人ずつ、中学生四人の甘苦い青春物語と、まったく不釣合いなヤクザものが絡みノワールが混合した長編小説で、それぞれの少年少女たちと親との関係、葛藤が丁寧に描きこまれているあたりは『放蕩記』を頂点とする母娘ものの系譜を汲んでいる。
 複雑に入り組んだラブロマンスの山あたり谷ありということではデビュー以来の得意ジャンルで、さすが25年、熟練の域に達している。しかも、物語の人物相互の関係も、それぞれが背負っているものも、当初はよくわからない。
 だんだんと話が見えてくるあたりは、喫茶店で偶然隣り合わせた、ひそひそ話の密談を耳にするような刺激がある。小出しのこのあたりは絶妙。25年だわ。
 さらに冒頭かなりエグイ、ノワールな場面から入り、そこから一転情景を転じてしまうあたり。まるで物語の全容が掴めない。だからドキドキさせられる。
 中盤までは、そうしたドラマつなぎの技巧の妙味に目を奪われながらも「うまい」というのが正直な感想で、ノワール感覚はそれほどでもなく、「新たな到達点」と謳う斬新なものを感じるところまでにはいたらなかった。


 主人公である四人の少年少女の中学時代と、30代となった彼らのその後。場面と時代を切り替えながら、それぞれの視点で描かれる。
 外見とのギャップのある「内心」を伝えるということでは、村山作品らしい緻密さだ。『嘘』に唯一、村山由佳として読んだときに違和感があるといえばノワールタッチだが、四人が共有することになる「二つの事件」の描写について、とりわけすべての発端となる少女に関わる事件については最小限度の描写にとどめ(必要ではあるが、正直トシをくってくるとこの類いのシーンはもう読むのがツライ)、反面第二の事件については事細かに描いている。いずれも「暴力」にかかわるものだが、書くのと書かない。その配分が作家の性分をあらわしている。

 

 印象が激変したのは、終盤に近い「第六章」だ。ヤクザの世界に十代から身を投じてきた近藤宏美。四人の物語として捉えた場合、近藤は脇筋なのだが、物語の中では四人同様に「内心」が語られはじめる。控えめながらもキーパーソンであることは間違いない。
 女のような名前をもつキレキレの男で、若い頃から心酔し絶対服従をちかってきた親分を近藤は、残り頁も少ない章で裏切ろうとする。親分はそんな近藤の腹の中はとうにお見通しで、しかし、それを微塵も顔に出さない。声を荒げない。正体をつかませない。モンスターのような九十九誠と、九十九を慕いロボットのようにつかえてきた近藤の「暴力」を媒介にした信頼と離反、男の嫉妬と愛憎がからんだ関係はノワールそのものだ。しかも、互いに背信という「嘘」を胸にひめている。


 この小説の中で際立っているのは、丁寧にこまかやに主要人物たちの心の動きがつまびらかにされるなかで、ただひとり九十九誠という、物語世界全体をコントロールをしているヤクザ者のことが何ひとつ明かされていないことだ。勘が鋭く、判断力も高い。情も、物分かりもいい。当初はそう疑わせない。ある意味、ビジネスマンとして見た場合、理想の上司にも思える。それでいてキーパーソンなのに「自分」語りもしない。九十九という男を理解する手がかりは、腹心の近藤か四人の視点からの観察のみ。巧みに誰にも心を見せずにひとを欺いて生きてきたということでは、最大の「嘘」の主は、この九十九誠なのかもしれない。内面が描かれていないからこそ、九十九を読者として知りたくなる。
 いっぽう、そんな得体の知れない九十九に心酔しながらも、土壇場で態度を翻してしまう近藤にも魅力を感じる。つよく。中盤から近藤にスポットが当てられるにつれ、近藤のことが気にかかってしかたない。九十九と同類の「悪」なのだが、悪に徹しきれない甘さが近藤からはにじみ出ている。
 役者でいうなら、三浦誠己が適役。あるいは若かりし、根津甚八。読み進むうち何度も石井隆監督「ヌードの夜」の余貴美子と根津さんの絡みが思い出された。ベッドの枕もとに余演じる「名美」が凶器を隠し、根津演じる「村木」をねらう。殺すことでしか縁を切れない女と男。どうにもならない。ぐだぐだの男女の腐れ縁といえばそれまでなのだが、そこに奇妙な狂愛を感じる。和製ノワールの名作映画で、根津を兄貴と慕うホモセクシュアルな鉄砲玉を、当時は無名の椎名桔平がキレキレに快演していた。

 

「第六章」に話をもどす。全体の一割にも満たない30頁のこの章が突出しているのは、近藤が絶対服従の親である九十九への背信をはたらく「嘘」と、近藤の意図を見破りながら平然と乗っかってみせる九十九の「嘘」。さらには、物語の中で最重要のキーパーソンである刀根秀俊が脂汗をかきながらの「嘘」、それら一切合財の「嘘」を飲み込んで大団円を演じるろくでなしのヤクザ佐々木。この佐々木の「嘘」がまた見事で。いくつもの「嘘」が混合しぶつかり合う緊迫したシーンのノワール感がハンパではない。

 名前を伏せた上で、この場面を誰が書いたかを問うたとしたら、村山由佳の名前はまず出てこないだろう。では誰がこの場面を書けるのか。何人かの作家の顔は浮かぶものの、ちがう。考えも及ばないというのではない。ノワールを売りにした映像作品や小説に類似のものはあるかもしれない。それでも、近藤と九十九、佐々木と刀根。刀根と近藤。主観視点が激しくスイッチングされるたび、それぞれの張り詰めた顔が浮かんでくる。
 とくに佐々木は、冒頭から愚昧で変態のロートルヤクザの印象だった。それが一場面、ほんの一瞬で物語のカタルシスをいっぺんにかっさらい疾走していく。完全な脇役でしかなかったのが、賭場の掛け金を総ざらいして猛ダッシュで立ち去る感じというか。刀根も近藤も、重厚な九十九さえもがぶっ飛んでしまう。お見事というしかない。


 もうひとつだけ。いくぶん蛇足だが、九十九誠というヤクザ。濃厚なキャラクターながら、ただひとり「自分語り」をしない。これは特筆にあたいする。愛してしまうと感情のコントロールがきかず、愛を注ぐほど、たとえば愛玩動物の首をひねりつぶすように破壊し尽くしてしまう。過剰なる「欠損」を抱えた男といえば思い浮かぶのが『笑う山崎』だ。しかし、それとも異なる。何がどうという説明はし難いのだが。苦味に混じる濃厚な甘美というのかな。村山由佳が今後もノワール作品を書き続けるのならば、近藤と九十九が出会うまでの前史の物語を読みたいものだ。是非。

 

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/