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朝山実が、読んだ本のことなど

映画「淵に立つ」(深田晃司監督)のあるキャラクターについて考えてみた

映画「淵に立つ」(深田晃司監督)を観て…

 

ポスター画像

映画『淵に立つ』公式サイト


※映画のネタバレを含んでいます

 日が経つにつれ、観終わった直後の違和感はだんだんと薄れ、浅野忠信演じるあの男は、観た人たちのコメントにあるように「得体の知れないモンスター」だったということで、あれはあれでよかったのかと思いもするようになりかけている。

 ただ、当初の違和感はまだそれなりにあって、10年ちかく刑務所に入っていたのは男が強盗をはたらいて人を殺めたということではなく、彼自身が固く信じる何らかの思想(それが政治的なものなのか、カルト宗教的なものなのかは不明。映画の中では何一つ明かされていない)にもとづき、ひとりの人間(誰かは不明)を殺害し、裁判でもそれを認めたうえで服役したという事実。

 刑期を終えて出所した彼は、一月ほどしてふらっと旧友が営む工場に姿を現す。零細工場を経営する友人を演じるのは古舘寛治で、ふたりには家族にも隠している深いつながりがあるらしい。それが何かはわからないが、ふたりの挙動から「ただの友人」ではないことはわかる。

 男はいつも白いワイシャツを着用。居候になった後も、友人家族らと山に行楽に出かけて行く際ですら白いワイシャツのボタンをきちんととめ、堅苦しいほどにマジメ人間に映る。そういうマジメぶりが観るひとによっては、何らかの意図を秘めたものというか、サイコな人格を想像させることにもつながっていく。口数がすくないのもそれを強くしている。

 白いシャツに象徴される振る舞いは、男が周囲を欺くための「演技」なのか否か。演技だとするならば、彼は確信的なモンスターということになる。ならば、ホラーがかったスリラーとして映画を見通せばいいわけだ。


 しかしながらワタシの目には、浅野忠信演じる男の中に狂気めいたものを感じられなかったのだ。つまりサイコな人と思えない。

「淵に立つ」の物語をおおまかにいうなら、こうだ。小学生の女の子(使い込んだ赤いランドセルが印象深い)のいる夫婦のもとに突然、浅野忠信が現れ、その日から居候になる。父親の工場を継いだ古舘寛治とは昔とくべつな交友関係にあり、浅野に対して重大な借りがあるらしい。 

 妻はそうしたことは知らず、怪訝に思うものの夫は詳しくは説明しない。来訪される一家の側が円満なわけではないというのがなんとなく伝わってくる。重大な借りが、男の服役に関わることらしいのは推察されるが、それが何か、ポイントが伏せられたままに話は進んでいく。

 男を交えた古舘家の食卓風景が劇中に頻出するが、食事中、夫はひとり黙々と箸をすすめ、会話もすくない。とはいえ、円満ではない夫婦などめずらしくもない。ある意味どこにでもある、うまくいっていない家庭のひとつという印象だ。食卓の風景といえば森田芳光の「家族ゲーム」を思い浮かべたりもした。

 男の来訪は、いずれ自然崩壊していったかもしれない、つり橋のように均衡のとれていた一家が壊れていくのを早めただけのことだともいえる。 

「謎の来訪者」によって、平穏に見えていた夫婦や家庭がおかしくなるというのは古今東西よくある映画の筋でもあり、驚くほどのことではないが、この「淵に立つ」に感じる違和感(強くひきつけられる要素でもある)は、謎めかされた浅野忠信の実態、彼が何者なのかが最後まで掴みきれなかったことだ。

 男が、工場の一家の娘に慕われ、ピアノを教えてやる場面がある。彼は子供の頃に習っていたと言い、ほかにも博識な言動、穏やかな語り口調から育った環境は中流以上で高学歴のインテリであることがわかる。とともに娘と父親の関係から、ワタシは私的な事柄ながら、実家での父と兄を思い出していた。

 子供のころには我が家の事情を理解していなかったのだが、ワタシの父は15歳違いの兄にとっては「叔父」にあたり、兄の「実父」が戦死したのち母が家に残っていた「夫の弟」と戦後に再婚、ワタシが生まれた。そういう事情を知らない子供のころのワタシは、日頃父親らしくない父を疎ましく感じる一方で、面倒見のいい兄にまとまわりついていた。
 父からすれば、なつかない息子を見ていて面白くなかったのだろうなと思う。というか、父は何を考えているのかわからないひとだった。劇中の古舘寛治が口数の少ないのも、なんとくわが父に似ている。娘が男と楽しそうにしているのを古舘が傍観しているのも、だから個人的にはとても印象深い。そして、夫に不満を感じていた妻も娘以上に男に惹かれてゆくのだ。

 よくある物語ならば、外部から割り込んできた「謎の男」が妻や子供を奪っていく。子供を巻き込んだ三角関係の歪な展開になるのだろうが、刑務所でも模範囚だったにちがいない男は、自分に好意を抱く妻にある日、肉体関係を迫り、彼女がすんでのところで拒絶するや、抑えがたい情欲からか、少女に「何か」をしてしまう。

 中盤に突然起きる「何か」は劇中では伏せられたまま、映画は8年後へと飛ぶ。何か、とは。スクリーンで観客が目にするのは、娘を探しにいった夫が発見したそのとき、公園の片隅に仰向けになって倒れた少女の後頭部のあたりに血溜りが広がっていく。その場に立ち尽くしていた浅野忠信が逃げだし、古舘寛治が追うものの姿を見失ってしまう。


 そこまでが映画の前半で、後半の8年後の工場の一家に焦点をあてたドラマ展開については、ここでは省略する。消息を絶った浅野忠信が再び登場するのは、ラスト付近のワンシーンに限られる。それも現実ではなく、ある展開のなかでの幻惑的なシーンである。悪魔的な笑みを一瞬浮かべる男を現実のピースのひとつとしてつなげるなら、彼は最初から一家を壊すためにやってきた災厄的なモンスターだったという解釈が成立しやすい。

 しかし、しかしである。それはあくまで「被害者」となる一家の視点によるものであって、男が果たして何を意図してこの一家のもとに現れたのか。核心部分は、男が服役した事件ともども、それは監督の意図らしく「藪の中」のままに映画は幕を閉じてゆく。少女と男との間にあの日何があったのかも。

 つまり、ふたつの謎を秘めたままエンドロールを迎える。もちろん「藪の中」に置かれたままに終わる映画のスタイルはあっていい。そういう映画はむしろワタシの好みでもある。「観客の想像を広げておきたい」という演出意図や効果についても承服できる。

 たまたまワタシが観た渋谷のアップリンクでの上映後、監督と美術スタッフのトークショーがあり、Q&Aで、劇中に「総括」という言葉が出てくることについての質問に対して深田監督は、批評の中に「連合赤軍事件を連想した」というものがあったと話されていた。

 浅野忠信を含めた一家がピクニックに行き、その際に川べりに並んで四人が寝転がっている。ポスターなどにも使われている俯瞰したシーンが、リンチを加えられ殺害された仲間の埋葬写真を連想させるというのだ。そこから浅野忠信の演じる男が、そうした過激派活動家グループの一員だった可能性を観客が読み取る可能性について、監督は肯定も否定もしないという趣旨のことを語っていた。

「総括」という言葉も劇中にたった一回出てくるだけである。浅野忠信の服役前に、彼の子供を産んだシングルマザーの女性が、子供を厳しく育てたエピソードとして「いつも母は、学校から帰ったらその日の総括をさせるんです」と成長した息子に回想させている。

 浅野が、古舘の妻に喫茶店で打ち明ける場面も印象的だ。刑務所に入ったのは人を殺したからで、かつての自分は「正義」を過信し、ひとの意見を聞かず、人を殺めることも信念によって許されると考える。誤りだったとの懺悔のようにして、そういう人間だったと語る場面がある。

「総括」や「正義」という言葉、くわえて浅野忠信の礼儀正しい生活態度などからワタシの脳裏に浮かんだものは、たしかに連合赤軍内ゲバを繰り返していた政治セクトであり、その後のオウム教団である。時代設定や浅野の年齢、眼に鮮やかな白いシャツ姿を加味するなら、よりオウムのほうを印象付けられた。そして話はフリダシに戻るのが、彼が着用する目映いばかりの白いシャツが、ワタシにとってはこの映画に関する違和感の理由でもある。

 信奉する思想原理に拠って立ち、「正義」の為にはひとを殺めることすらためらいはしない。一度そう確信、思想した人間が、いっときの情欲で子供を手にかけたりするものだろうか。

 それでは己れの人生の否定である。

 瞬時の男の変化を象徴するものとして、工場の白い作業着をはだけ、男は真っ赤なTシャツを見せる。狂気に走ったという劇的シグナルなのだろうが、これがどうもワタシにはしっくりこなかった。

 白から赤への反転。そんなに簡単に人はひっくり返るものだろうか。

 それとも男の「白」は計画された偽りで、本性の「赤」が露になったというだけのことなのか。だとするなら、劇中でみせる様々な懺悔すべては偽りということなのか…。

 来訪者を受け入れた古舘寛治には、誰にも口にすることのできない罪の意識がある。男が殺人を犯したその場に、彼もいたのだという。「共犯者」の存在を、男は裁判でもクチを割らずに黙り通した。古舘が旧友を受け入れた事情が劇中で匂わすかたちで明かされる。ピクニックに行ったときに古舘と浅野が二人きりになる場面だ。

 喫茶店で妻と浅野が会っていたと知り「(妻に)どこまで話したのか」と問う古舘に、浅野は「おまえのことなんかしゃべっちゃいないよ」と声を荒げる。「オレがクソみたいな日を送っているときに、オマエは毎日セックスして子供まで作っていたんだな」と攻撃的になる。それまで見せていた表情とはまるで違っている。この台詞が後の少女の事件と絡まり、彼を怪物的なキャラクターとして、最初からある意図をもって近づいてきた男であるかのように思わせる。

 だが、繰り返すが、ワタシには男がそういう恨みを腹に抱えた人間とは思えないのだ。ただ行き先がなく、なりゆきで旧友のもとに転がりこんだだけだったのではなかった。怒りは、友人の卑屈な態度に、かつての仲間に失望するがゆえの罵倒ではなかったのかと。

「招かれざる客人」が一家を崩壊させていく全体の筋はよく出来ているし、この映画そのものは秀作だと考えもするのだが、ただ一点、浅野忠信が忽然と消息を絶つあの一瞬と、服役した「殺人事件」とのつながりが、どうにも合点がいかずにいる。一個人としての人格の一貫性を感じられないのだ。ただ、日が経つにつれ、当初の強烈な違和感はやわらぎ、あれはあれで映画としてありなのかもしれないと思いつつもある。

 確信的な「思想犯」と、欲情に負けた「破廉恥男」とは、一個の人格、個の実人生として相容れなのではないか。そう思いはするもの、それ自体が人に対する幻想というか「過信」なのかもしれない。世の中にはどんなことも起きるし、ありえないことは一つもない。現実に、厳格である宗教者や「聖人」が破廉恥な罪を犯してニュースになることもある。だから、あの男が思想犯でありモンスターというのも可能性としてはありうるのかもしれないと。

 もやもやとした気持ちを晴らしたく、深田監督の前作で「淵に立つ」と同じ構造をもつ過去作品「歓待」の特集上映会があるというので観にいった。
「歓待」では被害者である古舘寛治が、印刷工場を営む家に入り込み、かき乱す「侵入者」を演じている。立場を逆転させていた。

 これがすごくコミカルで、男は平気でウソをつき、ひとを罠に陥れる。ひょうひょうとしていた「悪人」ぶりなのだが、視点によっては善意の「救済者」とも映り、すさまじい「破壊者」でもある。本当のところ彼が何者なのか不明なままに姿を消してしまうということでは「淵に立つ」と類似している。そして古舘寛治のあまりの快演ぶりに、この男の正体を問い詰めてもさして意味はないと思えたのだった。

 つまり、監督の狙いは、かき乱される側にテーマは存在し、侵入してくる男はきっかけでしかない。とするならば、あの浅野忠信演じる「謎の男」もまた「正義」はオプションで、ただ「謎の男」としてそこに存在してあればよいと監督は考えたのならば、劇中の個人の一貫性に拘泥しても、そこに解はなくなる、そういうことなのか……。(もしかしたら、つづくかも)

 

fuchi-movie.com

若い女性が、火葬場で働いた体験記『煙が目にしみる』が面白い。

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「食人族」
というと何とも恐ろしい。私たちとは異なる世界に生きている蛮族と考えがちだし、この本を読むまではそうだった。60年生きてきて、知ってはじめて視界がひらけたというと少々大げさだけど、いまはそんな感じだ。


『煙が目にしみる 火葬場が教えてくれたことの著者ケイトリン・ドーティ(翻訳・池田真紀子、国書刊行会)は、シカゴ大学で中世史を学び、卒業後にサンフランシスコの葬儀社に就職、火葬炉の担当を一年ほど務めた。1984年生まれ。大学を出て何でまた葬儀屋で働きたいんだい、と周囲から不思議がられもしたそうだ。

 米国はキリスト教が基礎をなす社会で、大多数の人たちが土葬を選んでいる。しかしながら63年にローマ教皇パウロ6世が火葬を容認すると見解を示して以降は、火葬が増加する傾向にありるそうだ。
 南北戦争を発祥とするエンバーミング(薬液によって防腐処理をし、生前の自然な状態に見えるように施術する)が一般にまでひろまり、遺体は棺に納め、死に顔を葬儀の列席者に披露したうえで墓地に土葬する流れが定着するなかで、火葬の増加はシンプルでより低価格であることが理由らしい。とはいえ、まだまだ数のうえでは土葬が多数で、大学を出た女性が選ぶ職種としては、二重の負荷がかかっている。


 ケイトリンは、最初に担当した遺体のことはよく記憶している。
 目を見開いた裸体の70代の男性で、上司から髯を剃るように言われ、切り傷をつけてはいけないと「シェービングクリームはありますか」と聞いた。自分に務まるのだろうかと不安だったから、一部始終を忘れようがないのだろう。


 火葬炉は全自動にはなっているものの、ときおり焼き加減を調整しなければならず、ムラなく焼き上げるコツみたいなものが綴られている。おおまかな炉のシステムは日本のものとそんなに変わらないようだ。
 ちなみに、なかなか取材者が立ち入ることのできない日本の火葬場を取材記としては『葬送の仕事師たち』(井上理津子著・新潮社)が参考になる。

 ちがいといえば、日本だと火葬場の職員さんが立会い、「これが喉仏で、これが……」といったふうに、お骨を箸でつまんで骨壷に入れる「骨揚げ」の儀式にあたるものが米国の火葬場ではなく、そもそも遺族が立ち会うケースじたいがすくないらしい。

 焼きあがったお骨は「粉骨機」にかけられ、パウダー状の灰にしたうえで骨壷に入れて遺族に引き渡される。

《粉骨機でさらさらの灰に変わったミスター・マルティネスをポリ袋に移し、パンの紙袋を閉じるのに使うビニタイを巻きつけて密封した。そのポリ袋を今度は茶色いプラスチックの骨壷に納める。》という具合だ。

 骨壷に金箔をきかせるオプションもあるらしいしいが、たいていの家族は、そうした高価なものは購入しないらしい。
 火葬に遺族が立ち会うという習慣が一般的でないのも、火葬と土葬との大きなちがいみたいだ。ただ、なかには立会いを要望されることがあり、いつもどおり、普段着で出勤した著者が落ち込んだエピソードが紹介されている。

 その日のご遺体は中国系のひとで、火葬場に大勢の親族が集まり、伝統的な弔いの儀式をしようとしている。ケイトリンは、そこに赤いワンピースを着て出勤する。
「そこのあなた!!」
 遺族の女性がと怒鳴りつけ、彼女は呆然。いつもなら、その職場にいるのは、ケイトリンひとりきり。この日も事前に、立会いがあるとは知らされてはいなかった。
 とはいえ、「そりゃアンタ、怒られるやろう」と思うのは私たちが日本人だからだろう。弔いの場に「赤い服」だものね。しかし、彼女は激怒されるほどのことだとは思っていなかった。育った文化のちがいは、葬儀の場面に端的にあらわれるものだとわかる逸話だ。

 そんな具合に、火葬ひとつとっても大きな文化のちがいが見えてきて面白い体験記だ。ほかにもエンバーミングの商業的な要素について、著者なりの違和感を綴っているのも興味をひくところだが、一番インパクトがあったのはやはり、本書のなかでは枝葉にあたる「食人族」の話である。

 ケイトリンは、自分の人とは異なる関心の持ちようについて詳しく語っている。
 葬儀社に就職する動機についても、8歳のときにショッピングモールで小さな女の子が墜落する事故現場を目にしたのがトラウマとなり、「死」が意識にこびりついているという。シカゴ大学で中世史を学ぶとともに、民俗学的な勉強もしている。


 ところで「食人」という言葉から、あなたはどんなイメージを抱きますか?

 本書によると、食欲を満たすための行為ではなく、弔いの儀式の中の行為として続けられてきた部族があったという。
 ブラジルのアマゾンのジャングルにすむ
「ワリ族」はいわゆる「人肉食(カニバリズム)」を生活習慣にもっていた。と、聞くとおどろおどろしげだが、内実は、亡くなった身内を悼み、みんなでその肉を焼いたりしながら食することで、死者の魂を自分のなかに受け入れていく。厳かな儀式にあたる。

《ワリ族は死者を食べる習慣を持つ。つまり、彼らの食人の風習は死者を弔うために行われる行事の一つだ。身内が息を引き取った瞬間から、その死体のそばから人がいなくなることは決してない。遺族は甲高い声で単調な歌を歌いながら、死者を抱いてそっと揺すり続ける。この歌やむせび泣く声が集落に死者が出たことをほかの住人に知らせ、まもなく集落全の全員がその催眠効果のありそうな歌声に加わる。(後略)》

 ワリ族にとって、死者の肉を食するのは「弔い」であって、嗜好や残虐な感情からではない。嘔吐しながら食する人もい、空腹を満たすものでもない。「供養」だと信じての行為にあたる。

《肉を食べ尽くすと、残った骨は荼毘に付された。こうして死体が完全消えて初めて、遺族や集落の住民の心から不安も消える。》

 しかし、こうした伝統的な弔いの風習だったものを、1960年代になってブラジル政府は禁止し、土葬を強制した。わわわれの社会に加わるのなら、野蛮な儀式はやめろというわけだ。
 結果、精神を病むものが続出したそうだ。その後「ワリ族」はどうなったのか。詳しいことを知りたいと思ったが、レポートの出典が明記されていないのが残念だ。
 一見「野蛮」に映る行為も、調査してみると異なる意味合いをもつものだという一例だろうか。

インタビューライター・朝山実 近著 『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社) 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店) 『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)etc. 不定期連載 「日刊チェンマイ新聞」"朝山実の、という本の話" http://www.norththai.jp/